「あの素晴らしい曲をもう一度」 
 
フォークからJポップまで
「冨澤一誠さんの著書に、加山さんについての記述がありましたので、ご紹介します。
”キョンキョン”さんから、ご提供いただきました。
”キョンキョン”さん、ありがとうございました。
加山雄三の革命
 東宝の映画「若大将シリーズ」の主役として活躍していた加山は六五年六月に歌手として「恋は紅いバラ」をリリースしました。この曲のヒットを契機に加山雄三ブームが起こり、「若大将シリーズ」は東宝のドル箱となります。それ以降も、加山は「君といつまでも」」「夕陽は赤く」「お嫁においで」「旅人よ」など連続して大ヒットを放ちます。加山は普段着のままテレビ出演し、エレキ・ギターを自ら弾いて歌いました。バック・バンドはザ・ランチャーズ。その姿に若者たちは憧れました。

 なによりも加山が、弾厚作というペンネームで、全ての曲を作曲していたことがカッコ良く映ったのです。このブームのおかげで、若者たちは「自分も作曲できる」ことを学んだのでした。

 加山が若者たちに与えたこの影響を表とするならば、加山が音楽界に与えた衝撃は、いわば裏とも言うべき出来事でした。その衝撃とはー加山以前は、いわゆる作家(作詞家、作曲家)はレコード会社の専属で、デビューする新人は専属の作家の曲を歌わなければなりませんでした。ところが、加山は自分で曲を作って歌ってしまいました。これは当時、専属制にふれるとかふれないとかで問題になりましたが、それでも発表されて、当たりに当たってしまったのです。これは皮肉にも、自作自演の「安全度」をレコード会社に認識させることになりました。そして各社が「加山に対抗できる自作自演の歌手を探せ」をスローガンに掲げました。

 そんな中から、荒木一郎が六六年九月に「空に星があるように」でデビューし、「今夜は踊ろう」の大ヒットで加山と並ぶ位置につけました。ふたりの成功により、レコード会社は自作自演を新しい時代の新しい音楽と認識し始めたのです。そして彼らは、フォーク・ソングに対する考え方を少しばかり柔軟したのでした。

 どの世界でも同じですが、仕組みというのは一度できあがってしまうと取っ払うのがきわめて難しい。それを可能にする唯一の方法は、新しい人が古い人の圧力に耐えながらも、それに挑戦し、成功させる以外にありません。その意味では、加山、荒木の成功は、レコード業界の因襲にひとつのクサビを打ち込んだとして評価できるのです。

11年02月05日新設