「旅」 特集 ひとり旅
 
その楽しみ方と旅情コース
(昭和39年)
「昭和39年発売の「旅」って本に「乱れる」のロケで訪れた銀山温泉のことを加山さんが書かれています。この本はつい最近オークションで500円で手に入れたものですが・・・。」
”キョンキョン”さんのコメントです。
”キョンキョン”さん、ありがとうございました。
「山は白銀? いでゆは銀山」
         加山雄三
 雪がなくて心乱れる
 
 奥羽本線新庄駅から車に乗ること一時間半、上野からはもう八時間もの旅。行けども行けども寒々とした木立と畑ばかりの道。
 脚本家の松山善三氏が、以前この地へ来る機会があり、すっかり惚れこんで、郷里山形へ帰ろうとする美しい義姉(高峰秀子さん)を追い、その途中、余りにも激しい僕の純愛に乱れる心を鎮めるため、人里離れた秘境の宿へ立ち寄り、意外な結末に陥いるという成瀬監督の「乱れる」ラストシーンには是非と、ロケ地にしたとのこと、僕はいくら何でもこんな場所にと、空腹も手伝って、いらいらして来た。
 この前ロケに行った、それも国外ロケのハワイでは、羽田から八時間後はもう、ワイキキの浜で、波乗りに興じていられたのに。いささか退屈して来たとき「あの辺が銀山温泉ですよ」。運転手も、やっと目的地が近くなったので、ホッとしたのか、急にはしゃぐように話しかけてきた。
「銀座温泉ってのは、名前の通り銀の山なの」その瞬間、問い返す僕の言葉をふさぐように、地元の運転手らしく、ペラペラとお説教が始った。その話をまとめると、曰く
 奥羽山脈南端の山ふところに抱かれ、今は戸数十三戸ばかりの温泉場で、湯治客は、近郊近在の農家の人ばかり。毎年、自分の家で採れる米や野菜を持って、一日三百円の計算で、一週間から、長い人になると三ヶ月も、七、八人のグループで、自炊しながら泊まり、胃腸に効くという湯につかり、民謡をのんびりと合唱しながら楽しみ合う。
 しかし、昔は、といっても康正年間だが、加賀金沢の人、儀賀市郎左衛門という人が銀鉱を発見し、約二百年に亘って、日本屈指の鉱山として大変栄えたのだが、宝永の頃から出銀が衰え、それ以来、鉱脈を掘っているときに湧いた温泉の泉質が良いために、最上川に近いところから、最上銀山湯として、春は山菜、夏はかじか、秋はナメコ、冬はスキーと、近ごろは、来訪客もしげくなって来たのだそうだ。
 僕はこの最後の話を聞いたとたん、空腹も、イライラも、消しとんでしまった。何故なら出発の三日前、ロケ地で雪が降ったとの話を聞き込み、それっとばかりに、昨年から置きっぱなしにしてある愛用のスキー道具一式を、岩原のスキー場から取り寄せ、それに、もし一人で退屈したらギターをと、両手に抱いて持ってきていたからである。十二月の七日。雪便りの話はまだ、誰もしていない。よし初滑りはこの機会に。それに、旅へ出たら必ず、その土地土地のものを得て帰る主義の僕は、雪があるなら、スキーさえあればと気負いこんできたのだ。
 銀山温泉はもう真っ暗だった。車を降りた僕はすぐ、雪を求めたが見当たらない。必死になって見渡し歩いたが、そこは黒の世界だった。宿へ着くなり「雪はどうしたの」と、真っ先に聞いたが、その答えは厳しかった。「降ったには降ったけんど、あんだけじゃ。ここんとここの天気でさっぱりさ」。
 後悔は先になんとか。東京で雪が降ったと聞いたとき、スキーが出来ると思ってしまったのだ。聞けば、積ったのはほんの二cm程、まして初めての雪、この位では根雪になる筈はない。とたんにまた腹が空いてきた。「飯を食わしてね」こう言って僕は、玄関の隅っこに、スキーを立て掛けた。
 風呂場はものすごく熱かった。だから余計、腹に沁みてきた。ここの温泉場は混浴。七十近いお婆さんが、後から民謡を歌いながら入ってきた。この人がまたまた話好きの人で、息子夫婦に、もう今年も仕事(稲のこと)は終わったから、隣の人と行ってこいと云われたので、いつもより早くきているのだが、毎年ここにくると、また一つ年をとった気がする。今年はいつもより早目に年をとってしまったとの長話。成程と感心しているうちに、ゆだってしまった。
 家の造りは木造で古臭いが、部屋は新しかった。
 その夜女中さんが、誰のだか判らぬよう運んでくれたスキーを眺めながら、今回のお土産話は、この道具を受け入れてくれなかった自然の厳しさと、お婆さんの言う、本当にこの銀山温泉に合った生きた言葉だと思った。そしてもう一つの道具、ハワイロケで仕入れたギターを胸にして、雪山讃歌を歌い始めた。

                       終わり

11年02月05日新設