「歌伝説 愛の賛歌作詞家 岩谷時子の世界」NHKBS2 |
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2月にNHK BS2で放送された番組を加山さんの出演コーナーを中心にレポートしました。
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「まだ見ぬ恋人」の打ち合わせでの加山さんと岩谷さん | |||
岩谷時子の世界 | ||||||||||||||
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戦後初の女性作詞家として歌謡曲からミュージカルまで幅広い活躍を続けてきた作詞家、岩谷時子。91歳。 カバーポップスに日本語の詩を付けた。「月影のナポリ」 |
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S37年には自らの創作で 「ふりむかないで」を作詞。 |
S38年「恋のバカンス」で ヒットメーカーの仲間入り。 |
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S39年「ウナ・セラ・ディ東京」で女性初の日本レコード大賞作詞賞を受賞 | 園まり「逢いたくて逢いたくて」 作曲家宮川泰のメロディにのり日本のポップスの新たな扉を開けた。 |
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昭和14年宝塚歌劇団編集部に入社 私が現在、生業としている作詞の仕事こそは、まぎれもなく宝塚という夢多い演劇と音楽の土壌から生まれたもので、人生のいちばん美しいただ一度の季節に宝塚とめぐりあうことができたのを、私はなによりも幸せに思っている。 越路吹雪との出会い |
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人生を変えたもう一つの大きな出会いがありました。 昭和14年に初舞台を踏んだいわば同期生の越路吹雪との出会いです。 戦争中に一緒に苦労して、友だちっていうよりも親族みたいな感じですよね。私の母を自分の母のように |
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昭和26年、宝塚を離れ、上京。マネージャーとして越路を支え続ける。 翌27年、有楽町の日劇で開催されたシャンソンショー「巴里の唄」で越路吹雪がエディット・ピアフの「愛の讃歌」を歌うことになり、急遽岩谷が日本語の歌詞をつけることになった。 メロディをピアノで教わりフランス語の意味を直訳してもらった岩谷は悩みました。 エディット・ピアフが唄った「愛の讃歌」は恋人が不慮の死を遂げた壮絶なまでの激しい愛の歌、このままの歌詞では越路に似合わない。岩谷はその唄を越路のイメージに合わせて明るく官能的に仕上げたのです。 このとき岩谷時子36歳、作詞家岩谷時子の誕生を告げる唄となったのです。 |
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越路吹雪さんは何を唄わせてもそこへス〜っと入っていく、越路さんは特別でしたからね。 私も越路ちゃんに会わなかったら、こうはならなかった。 越路の個性と表現力を最大限に生かした岩谷時子の詩の世界は、日本中で愛され喝采を浴びることになるのです。 |
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「ろくでなし」(写真左)そして「サン・トワ・マミー」(写真右)を歌う越路吹雪さん | ||||||||||||||
岩谷はマネージャーとして彼女を支え続けました。日本語でしか唄いたくないという越路の求めに応じて、彼女が歌うほとんどの曲の詩を手掛けることになります。 昼はマネージャーとして働き、詩を書くのはいつも深夜という日々がつづきました。そしてマネージャーとして10年が過ぎようとしていた頃、岩谷は越路のエンターティナーとしての魅力を最大限生かした仕事にめぐり合えないと悩みはじめます。 宝塚を辞めてから台詞の発声のさえ、指導してもらえる機会がなかった。個性を重宝がられていただけではなかっただろうか。 越路さんも このままでは越路はだめになる、もっと大きく育てたい。岩谷は思い切った作戦に出ます。 浅利慶太は当時を振り返りこう語っています。 |
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岩谷時子が綴る愛の言葉は新しいメロディとの出会いによって、さらに世界が広がっていきました。 作曲家いずみたくとは名コンビと言われ、日本の歌謡史に残る数々の名曲を誕生させます。 昭和35年、岩谷の詩に魅力を感じていたいずみたくは、自作のミュージカル「泥の中のルビイ」のために作詞を依頼します。これが二人の最初の出会いでした。 |
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たくさんと仕事していたときが一番楽しかったんです。何かどこか共鳴するとこがあったんですね。 物語になるんです、たくさんと仕事してると。 |
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作曲家として一番長くコンビを組んだいずみたくは著書の中でこう記しています。 作曲家と作詞家は夫婦である。どちらが夫でどちらが妻かは別問題として、夫婦が一つの生活を築き上げていくのと同じ呼吸が一つの曲の創造に必要である。 |
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二人で作品を作り続ける中、岩谷はいずみから一曲のメロディを渡されました。 「おときさん、今度はどうしても夜明けをテーマにした曲にしたいんだけど」 手渡されたメロディにあわせて岩谷はイメージを膨らませました。 数日後いずみに届けられた詩のタイトルは「夜明けのうた」 |
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二人の呼吸がひとつになって完成したこの曲は多くの人に生きる力を与えました。 |
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左「ベッドで煙草を吸わないで」右「恋の季節」 | |||||||||
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左「いいじゃないの幸せならば」(第11回日本レコード大賞を受賞)右「サインはV」 | |||||||||
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左「男の子女の子」右「ほんきかしら」 | |||||||||
岩谷時子は作詞家として多忙を極めますが、本業は越路吹雪のマネージャーと言い続けました。
それは岩谷にとって越路がかけがいのない存在だったからです。しかし、岩谷が何よりも大切にしていた越路との二人三脚の生活に突然の終止符が打たれます。 昭和55年、越路吹雪は病のため55年の生涯を終えました。岩谷時子64歳の秋でした。 これですべてを失った。40年余りを共に過ごした越路との別れ、岩谷は絶望のふちに立ったといいます。 |
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越路吹雪よ 越路吹雪よ |
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岩谷は越路を失ったあとすべての仕事への気力をなくしました。 |
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しかし、長い時間を費やして思い直します。仕事をしたほうが悲しみは和らぐ、岩谷が選んだその仕事こそ彼女が大切にしていたミュージカルでした。 |
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昭和40年から現在まで日本で上映された大作ミュージカルのほとんどを手掛けた岩谷時子。 ライフワークの一つとしてミュージカルに取り組んできました。 岩谷が訳詞をしたミュージカルは、去年だけでも実に8本再演され、上演回数はおよそ900回に登ります。 |
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「ウェストサイド物語」は34年間にわたって再演を重ねてきたミュージカル。 昭和62年初演された「レ・ミゼラルブ」は20年間で2、272回の公演を数え、日本の多くのミュージカル俳優がこの舞台を踏みました。 |
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岩谷が歩んで来た道のりは、彼女が紡いだ歌の数々で彩られています。 岩谷に託されたメロディは、その愛の言葉で満たされています。 詩を作ることは大きな喜び、歌の中で沢山の恋をしましたと語る岩谷時子。 |
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岩谷にとって言葉は分身であり、岩谷の分身である愛の言葉は今も色あせることなく、私達の心に愛を語り続けています。 終わり |
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08年03月20日新設
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