「SEA DREAM GALLERY」

 (Sea Dream vol.14 2011年12月発行)

「Sea Dream」に掲載された加山さんの記事です。

加山雄三 絵画創作との出会い
 いまから14年前の1997年、私はあるラジオ番組で加山さんと対談したことがある。その収録場所となった恵比寿のスタジオの控え室で加山さんの到着を待っていたときのことだった。部屋の隅を見ると大きな油絵が2枚、大事そうに立てかけられており、その絵には、紺碧の海が広がり、砂浜に真っ白な波が打ち寄せる風景がダイナミックに描かれていた。

さてはどなたか高名な画家が描いたものを、海好きな加山さんが入手したのかな、程度に思っていたのだが実は違っていた。
 お目にかかって話を聞くと、加山さんが描いた油彩画だという。その時、加山さんのお歳は60歳。なんと58歳のときに描き始めて翌年には三越の新宿店で初の個展を開いたというのだ。わずか1年そこそこで油絵42点、水彩画44点、合計86点もの作品を創作し、個展に出品した。

 もともとは加山さんのお子さんたちの夏休みの宿題がきっかけだった。子供たちがお父さんやお母さんと一緒に何かをやって、夏休み中に子供と親がどのように向き合ったかを評価するというので、一緒に絵を描いてみようと思い立ったという。

 当時、雑誌「平凡」の編集長をしていた斉藤茂さんに手ほどきをお願いしたら、さっそく油絵の道具がプレゼントされた。自宅の洋風の広い風呂場に新聞紙を敷きつめて最初の作品に取り組んだ。手本にしたのは機内誌に掲載されていたミレーのアトリエを撮影したグラビア写真だった。

「君はなかなかデッサン力がある」とプロ並みの腕前の斉藤さんからほめられて気をよくした加山さんは、やはり雑誌に掲載されていた写真にあったフランスのロワール渓谷にあるシャンポール城など5点を描いたのだが、その時はそれまでだった。

 加山さんの絵心はもともとあったのだろうか。今回、作品を本誌に掲載するにあたり、ご本人に聞いてみた。「デッサンということになると、僕はこれまで設計したボートのほとんどを、完成後どのような姿で海の上を走るのかをイメージして描いていました。構造上おかしくないように細部にわたるまで出来るだけ正確に描き上げるのです。それがデッサン力を向上させたのかもしれませんね」

 加山さんがこれまで設計してきたボートの数は20数艇におよぶ。1艇1艇、最初のイメージから設計、完成予想図にいたるまでに描く数は、相当な枚数になるはずだ。そうしたなかで自然とデッサン力が蓄積されていったのであろう。

 海に憧れて、船乗りになるか船の設計技師になるのが夢だった。そして、若かりしころ俳優になったのは「一旗揚げて船をつくる」ためだったと堂々と自ら語る。

昨年、デビュー50周年を迎えた加山雄三さん。加山さんが根っからの海好き、船好きであることは誰もが知っている。
しかし、その加山さんが美術の世界でも才覚をふるっていることを知ってる人は意外と少ない。
今回は、「永遠の若大将」こと加山雄三さんの絵筆が生み出す絵画たちを鑑賞してみることにしよう。
マイボートを設計し
そのボートが走る姿を
描くことがデッサンの
下地になった
絵画だけでなく、陶芸や漆芸にも取り組んでいる加山さん。
写真は染付け陶板の製作中

 だから海の情景ということになると、それこそ子供のころから慣れ親しんできた海や、仕事を通じて見てきた世界の海や、マイボートでさまざまな航海をしたときに実際に目で見てきた海など、加山さんの脳裏に刻まれている海の風景のバリエーションは、普通の人より各段に多いはずだ。

 初めて油絵を描いてからしばらくたって、状況は一変する。加山さんがお世話になったオフィス・ヘンミに額装して飾ってあった絵を見た近代映画社の社長が、いとこの三越新宿店の美術部長に紹介。これは行けると判断した美術部長の「来年、個展をやってみませんか」の一声で実現したのが初の個展だった。

 加山さんの自叙伝によると、実はこの個展が開かれた1996年のお正月、加山さんは富士山の初夢を見たそうだ。「一富士二鷹三茄子という、昔から縁起の良い夢のひとつとされている。そして秋に開催された初の個展は、出品した作品全作がたった一日で完売した。
 以来、描いた作品は1000点を超え、個展は毎年開催されている。

アトリエで絵筆を持ち絵画制作にはげむ
加山雄三さん
上は「スコールの前」、下左が「ラッキー、こっちにおいで」
下右が「パルビゾンの散策」
「外海の波」
最近のボートライフ
 シードリームの読者としては、加山さんのボートライフの近況も気になるところ。そのあたりを聞いてみた。

「<光進丸>は定期検査も終えてとてもよい状態にあります。しかし、東日本大震災の悲惨な状況を見て、今年は船を出航させることを自粛することにしました」という。

 海から襲ってきた巨大津波。大自然の恐ろしさをまざまざと見せつけられた。被災された方たちのために何をしたらいいのだろうか。歌を届ければいいのだろうか。しかし、海が大好きゆえに、作った曲の中には海をテーマにした歌が多い。その海が東北地方に未曾有の被害をもたらした。震災直後はしばらくのあいだ、歌うことが出来なかった。

「ところがある日、被災した漁師の人たちがテレビ番組で「海が悪い訳じゃない。俺たちは海で働かせてもらって、海のおかげで生きているんだ。海が悪い訳じゃねえ」と言っている言葉を聞いて、涙が出てきました」

 そうだ、風が吹けば波がたつ。台風が来れば12メートルの波もたつ。海は外的な要因で凶暴にもなるし、穏やかにもなる。台地が揺れ、海底が隆起し、津波が発生しただけなんだ。海が悪いわけではないんだ・・・。加山さんは義援金を手に被災地を訪問し、歌った。岩手、宮城、福島へと足を運んだ。

「宮城に行ったときにいい話を聞きましたよ。その昔、函館で大火があったときに宮城の漁師さんたちから漁船を贈ってもらったからと、その恩返しに函館から250隻の漁船がプレゼントされたそうなんです。海の男同士の絆ですね」

 被災後3ヵ月ぐらいは救援やボランティアの活動は活発だが、その期間を過ぎたあとが大切なんだと、加山さんは言う。「プレジャーボートを無くしたオーナーの方たちも、まず生活を立て直すことが第一ですが、あきらめることなく、心で念じていると必ずかなうものだとお伝えしたいですね。僕も多額の借金をかかえたときがありましたが、あきらめなかった。そしてまた船を手に入れることが出来ました。神は、超えられないハードルはけっして与えないのです。いつかは必ずボートを造るんだ。買うんだ。それも少し大きめのものを手に入れるんだ、と思い続けることです」。

上「初雪の朝」
下「至福のサーファー」

 <光進丸>の次の構想はあるのですか?との問いに加山さんは即座に答えた。

「エコシップですよ。化石燃料をいっさい使わない船。動力は燃料電池。風力、太陽光のエネルギーをどうやって貯めるか、僕の船仲間たちと一緒にすでに研究に入っています。世界で初めての完全エコシップを設計して実現しようと思っています」

 58歳で絵を始めたあとに備前焼、陶磁器の染付け、漆器作りにも取り組んでいる。それぞれ著名な先生に弟子入りして、その道を究める本格的な創作活動だ。そのために西伊豆に自分の窯も持ち、電気ろくろも手に入れた。

「年の事はあんまり考えないかな、一日一日が一生懸命なのさ。今年すでに74歳になった加山さん。永遠の若大将の夢は、限りない。

加山雄三(かやまゆうぞう)

1937年4月11日神奈川県生まれ。慶應義塾大学法学部卒。1960年東宝入社。「男対男」で映画デビュー。1961年、「大学の若大将」に主演、大人気となった若大将シリーズがスタート。黒澤明監督の「椿三十郎」「赤ひげ」にも出演。歌手としては「君といつまでも」が大ヒット。以後も「お嫁においで」など数々のヒット曲を創出。弾厚作のペンネームでロック・ポップスからクラシックまで幅広い楽曲を創作。音楽活動のほか58歳から油絵を始め、陶芸や漆器などを創作するなど多方面で活躍し続けている。

西伊豆の海を航行する加山さんの愛艇<光進丸>

2012年06月13日新設