加山雄三 俺は100歳まで生きると決めた
  (文化放送podcast 2023年7月18日〜)

7月18日に文化放送の「くにまる食堂」で放送された「俺は100(歳)まで生きると
決めた」の内容をレポートします。
同日配信された文化放送Podcastでは、ラジオで未公開の内容も配信されました
ので、その内容も含めてレポートします。下からどうぞ!

今回は「第21回 加山雄三と絵画」をレポートします。

下からどうぞ!

 

 第21回 加山雄三と絵画
 
 絵との出会いは意外な理由
 

野村)リスナーの皆さんご機嫌いかがでしょうか野村邦丸です。そしてこの番組の
   メインパーソナリティは?

加山雄三でございます。よろしくお願いいたします。

邦丸)よろしくお願いします。いろんなことに首突っ込んじゃ、のめり込んできた
   加山雄三さんなんですが、今日はね。絵に行きたいと思います。

絵っ?

邦丸)加山雄三と絵、絵画です。

これはね。もう本当に聞かれたら聞かれるほど嬉しくてって思ったよ。とにかく
俺ね昔から絵描くのは好き。なぜ、好きになったかっていうとね。小学校入って
最初のうちね、のけものにされたんだな。というのは、みんなねボロボロの洋服
着てるのに俺だけちゃんとした洋服着てるって言うんでさ。仲間に入れてもらえ
ないんだよ、遊ぶ仲間に。

邦丸)お父さん、上原謙で、お母さん、小桜葉子で、ボンボンですもんね。

みんな外で竹パッドで野球やってんじゃん。俺仲間入れてくれないからさ、しょう
がないから教室に残ってノートの端から絵、描いて友達の似顔絵を描いてるとか、
そんなのやってたら、みんなが帰ってきて、見るじゃない。お前の絵を描いたっ
て。俺も描いてくれよって。みんな次から次へと似顔絵を描いてるうちに行列が
できるくらい。みんなすごく感動してた。それから絵が好きになって、そのうちに
だんだん、みんなが俺の絵というものを認め出した。そういうことから絵という
ものが好きになったんだな。

邦丸)東京銀座にありますか加山雄三ギャラリー。加山さんが今まで描いてきた
   絵ですね。人気のあるものは、販売して人の手に渡ってますけど、最初
   見て、これはいくつの時に描いたのかなと思ったのは、箱根登山鉄道の絵。
   あれ鉛筆でしたっけ?

そう鉛筆。

邦丸)今でもございます。昔ながらの箱根登山鉄道の車両の絵。

そう、あれでいつもね鉄道に乗って、おばあちゃんと一緒にね、小田原まで行って
登山電車に乗せてもらって。で、湯本まで行っちゃったら大変なんだよ。湯本まで
途中でも引き返して降りてくんだけど、嬉しくってさ。それで帰ってきて想像だよ。
もう全部あれ記憶に残ってる。

邦丸)写真を見ながらじゃないんだ!?

そんな写真なんてないもんだから、もう記憶に残ってる。全部絵描いてる。それが
小学校2年生の時に描いてるんだから大したもんだよ、あれ。それ未だに残ってるん
だよ。

邦丸)ギャラリーで見た時に。これ加山さん、何歳くらいの時ですか?って、
   お嬢さんに聞いたら多分これ小学校低学年じゃないですか、って。

そうだと思う。

邦丸)これはギャラリーに行くと皆さんご覧いただけますけど、これがね、何が
   すごいって言ったら、めちゃくちゃ精巧なんですよ。細か〜いところまで
   登山鉄道が、今にも走り出すような車両ね。そんな躍動感もあって。
   だから後で加山さんとインタビューさせていただいて、後にね船の設計図
   も描いたりとか、2年生の頃から、そういうのは才能はあったんですよね。

そういう意味ではね。絵を描くことは非常に好きだったね。

邦丸)そんな加山雄三さんの少年時代の話って、俺、初めて聞いた。ちょっと
   切ない感じはするけど、それをまたクラス仲間が。俺描いてくれよって。

みんなの似顔絵描いてやった。だから絵というものがさ、交流の原点にもあるって
ことを考えたら、ありがたいと思うよな。

邦丸)少年時代から絵を描くことが好きだっていう加山さんが本格的に絵画の世界
   にのめり込んでいった、これ、50代の時ですか?

そうね。52歳ぐらいからちゃんと描き出したんじゃないかな。人が様になってる
っていうよね。いろんなことをやりだした時にアブストラクトっていうかさ、
アーティストっぽく書いてみたんだよね。誰かに見せたらまだまだ早い。こんな
ことやらないで思った通り、きれいに描いてくれって言われたのを思い出すん
だけど、愛川欣也さんが俺の絵を見て、それで文句言われたんだよ。言われた
通りに描くとみんなびっくりするんだ。俺が波の絵を描くと、おおって感心する
わけだよ。波の絵を描いただけですごく感心するんだ。

 加山さん、こだわりの”波”
 

野村)加山さんの作品って、ずいぶん拝見しましたけど、写実的って言えば写実的
   ですよね。波もそれこそ押し寄せてくるような波の絵もあるし、静かな波っ
   ていうか、海の絵もあるけど、あれ波をいっぱい書くっていうのは?

それはね。大体みんな波は寄せてくると思っている。ところが引いてることを書い
てる人少ないんだよね。

邦丸)あ、そうか!

そうなんだよ。だからピューって引いてるところをちゃんと絵の中で書いてる、
そういうの無いからね。

邦丸)え!?それなんで、引いてる波の・・・。

いや、引いてった後に、起きるわけじゃん、波が。その引いたのと波がぶつかる
ような、それを描きたくなるわけよな。

邦丸)浜辺に押し寄せてくる波と引いてきた波がぶつかる。

それで浮き上がるじゃん。

邦丸)新たな波が出来ますよね。

そういうことだ。そういう瞬間を描きたいわけだよ。

邦丸)なんで、なんで?

なんでって、なんでかね。あんまり描かないから、普通の人は。

邦丸)それはあれですか、例えば、加山さんが茅ヶ崎の海をずっと見ていて、海の
   情景というのは刻み込まれた?

もちろんその通りだよね。そういう環境があってさ、海を見るチャンスばっかり
あったからね。俺は本当に海に惚れたんだ。俺は育った時は体が弱かったらしい
んだよ。

邦丸)加山さんが?

それを丈夫にしたいからやって、茅ヶ崎に住んでる。

邦丸)そういうことなんだ。

 少年時代 海遊びの爆笑エピソード
 

それで茅ヶ崎で海岸に放り出されたんだ、俺ね。で、いつもおじきの友達とか、
大学生とかが遊びに来て一緒に付き合わせてたんだね。その時になかなか泳ぐ
ことができない。難しいのは波がすごくあるじゃない。それをちゃんと泳げる
ようになるにはね、小学校4年生くらいにならないと。水着も着せてくれない
んだよ。

邦丸)スッポンポン?

スッポンポンだよ。それが非常に不愉快でさ。みんなね、海パン履いてるのに、
なんで俺はスッポンボンなんだって言って。海藻を一生懸命、胴に巻いてぶら
下げてた。そういうことをやっていた。

邦丸)スッポンボンじゃね。丸見えだから打ち寄せられた海藻を大事なところに。

腹の周りを巻くんだよ。ドレスみたいにして隠してた。幼な心に。

邦丸)そうやって海にどんどん親しみ始めたわけだ。

それでね、だんだん泳げるようになってくるよな。それで台風の通り過ぎた後
はね、かなり波が荒くなったりするんだよ。で、それがちょっと静まってきて、
ちょうど良くなった頃は波乗りって、いいわけよな。最初はボディサーフィン
だよな。

邦丸)ボードが無いわけですよね。

ボードはね、お風呂の蓋だ。それに腹ばいで乗っかって。キャッチウェーブ
ものすごくうまいんだよ。簡単なんだよ。

邦丸)一番最初のサーフィンって。お風呂の蓋に腹ばいになって乗っかって。

そうそう。それがボディサーフィングの始まりだよ。でそうなんだよ。それから
始まって、ハワイスタイルの波乗りを写真で見たらさ、ボードに立ってやってる
なと思って。それで今度は自分で作ってみようってなってさ。サーフィンの
ボードを作ったからね、俺。

邦丸)日本のサーフィンの先駆けだっていうことで、加山雄三ストーリーでご存知
   の方多いと思いますけど、そもそもが風呂場の浴槽の蓋。

それでキャッチウェイブは上手くなってね。それはものすごく役に立ったんだよ。
その後にハワイスタイルの波乗り第一号って。俺は立って茅ヶ崎の波でやって、
写真撮って新聞に載ったんだよ。

邦丸)それが最初の自作のボードですよね。

そうだよ、自分で作ったんだから。

邦丸)今日、聞いてて笑っちゃったけど、海パン貸してくれなくて海藻を腰に
   回して。ボディーボードは風呂の蓋だった。後に絵の世界で 寄せる波と
   引く波がぶつかるところの波という、他の人がなかなか着目しないところ
   が作品になった。元は分かんねえもんだな。
   また次回もよろしくお願いします。

よろしくお願いします。

ここまでの内容を音源でお楽しみください。(時間 13分50秒)
下からどうぞ。

 第21回 加山雄三と絵画
 

2025年5月12日新規作成