2007夏 
   広島から(完全版)
          

「2007夏 広島から」コンサートの出演者及び演奏曲目の詳細(加山さんを除く)をさださんのMCを交えてレポートしました。
完全版をご提供いただいたTOMO♪さん、ありがとうございました。

先発ピッチャー並びに総合司会は、さだまさし!長崎市出身、背番号50

というアナウンスからコンサートはスタート。
最初の曲は

「長崎小夜曲’90」

こんな暑い中に,こんな時間に沢山の人に集まってもらってとても嬉しいです。
広島でこうして歌を聴いてもらえるっていうのは
長年の夢でした。

20年間、広島の原爆の日8月6日に、長崎で20年、僕は広島の空へ向けて命について、愛について歌を歌い続けてきました。

そしてその20年間が終わったときに、思ったこと、ひとつ遣り残しているのは、長崎の原爆の日に広島から長崎の空へ向かって、広島の人と一緒に歌いたいということでした。
これが僕の夢でした。今日それが叶います。今日は一日かけて20年分のアンコールのつもりでやります。盛り上がっていきましょう!本当は盛り上がる歳ではないけど。

NHKの番組で、約束したんでやるけど。あっ、あの看板はなんだ!
(「ワクチン打って 麻しん・風しん完封」という看板を指差し)
あれは小児科医たちがお金を出し合って、子供達の命を風しんやはしかから防ごうというんで、”みんなでワクチンを打ちましょう”というキャンペーンのためにお金を集めたけど、大東京では看板が出せなかったという悲しい思い出の、あれが広島市民球場に飾ってあるわけであります。
子供達をみんなで守ってあげる、これもこのコンサートの願いの一つであります。

今日はね、暑いけど、・・・長崎ほどではない!だから思い切って2曲目にこの曲を選んでしまった!

「がんばらんば」

実は僕らがこうして広島市民球場、広島市民球場とうのは市民にとって非常に大切な宝物です。なぜかと言うと広島の戦後復興のシンボルだったわけです。
昭和32年から作り始めましてですね、今年が丁度、広島市民球場が出来て50年になります。
そしてその50年を機会に取り壊されることになりそして来年までは使いますけども新しい球場が出来るということですねえ

その50周年の記念にさだまさしのこのコンサートをさせていただくことになりました。

今日は3万2千人のお客様がこの中にビッシリと入ってくれてます。ほんとうにどうもありがとう!

あんなねえ、上のほうまでほんとにありがとねえ、その席が当たったときにはガッカリしただろうなあ。でもほんとにありがとう。まだまだ暑いけれども、頑張ってやっていきたいと思うわけであります。

せっかく球場でやってるのに、ジェット風船はないのか?という・・・・。ジェット風船は球場の外でしか売っていないそうですけどね。
普通は7回のホームチームの攻撃のときにやるんですけど、今日は7回が終わって8回の攻撃が始まるところで、もしジェット風船飛ばすなら飛ばしましょう!
合図は、まだ来ていないから言いますけども、私が”若大将!”と言った瞬間に飛ばしてください。それまでジェット風船を膨らませてはいけませんし、飛ばしてはいけません。

1回 ”佐田玲子”

「電車の中で」「どうせ棄てるものならば」

8月の6日にずっと長崎で広島の空へ向かって唄ってきた理由というのは長崎はとっても狭い町なので、8月9日の原爆の日に沢山の人が日本中からやってきます。
沢山の人が長崎に集まるその日に何万人も集まるコンサートをすると警察も邪魔だろうし、市民も大変だろうと思って、いろいろ考えたあげく,長崎の街から広島の空へ向かって唄うというのが、長崎らしい祈り方かなと思って、そうしました。

今年、8月の6日は僕は長崎に帰りませんでした。21年ぶりに長崎にいない8月6日を過ごしました。それでも長崎のアマチュアが一生懸命「まだまだ夏長崎から」というイベントをやってくれたそうです。最終的には1,200人のお客様が集まってくれたそうです。
本当に嬉しい限りです。1,200人を多いと思うか少ないと思うかはその人の感覚によるんだろうけど。
実はこのイベントの第一回の入場者数は3,000人から4,000人くらいの間でした。それがいつの間にか2万人、3万人という大きな数になってとうとう3万2千の球場にやってくることが出来たんであります。
その間にずっと同じことを伝えてきました。何を伝えてきたかは徐々に徐々にお伝えしていきます。

2回 ”チキンガーリックステーキ”

「Yes No」「氷の世界」「Let's go to the LIVE」

3回 ”September”

「花明かり」「蒼い羽」「A momento to remember」

いいねえ、球場だけは最前列で双眼鏡、許しちゃう!(笑い)
いいお天気になりました。21年、同じ気持ちで歌を歌ってきて21回晴れてます。
ただし、そのうちの一回は途中、ちょっとだけ雨が降りました。
21回のうち雨が一瞬だけ降ったのはおよそ20分間に渡ってです。映像にも映るほどの雨が降りました。
誰が歌っていたかというと”南こうせつ”さんでした。(笑い)
”南こうせつ”さんは大変な雨男だそうですけども、マネージャーの名前を”あらし”と言いいます。
私はマネージャーのせいではないかと思っています。(笑い)
考えようによっては21年分の雨を”こうせつ”さんがただ一人で引き受けてくれた、ありがたい人だなとつくづく思います。

それでも前日の降水確率100%という日で一滴も降らなかったこともあったんです。その時はゲストが谷村新司さんでした。(笑い)
歌うてるてる坊主と私達は呼ばれてしまいました。

こうしていろんな思い出を積み重ねながら21年目になります。
21年という時間の長さについては自分の胸の中で長いのか短いのか、まだ計ることが出来ません。
今日が終わったときに何か自分で感じるのかわからないと思います。

4回 ”コロッケ”

「かあさんの歌〜松山千春バージョン〜」 「チューリップ〜田原俊彦バージョン〜」「ずいずいずっころばし〜和田アキ子バージョン〜」「だんご三兄弟〜堀内孝雄バージョン〜」「おさるのかごや〜北島三郎バージョン〜」五木ひろし「契り〜ロボットバージョン〜」「千の風になって〜秋川雅史バージョン〜」

今回で21回を数えますが、ダブッたゲストは別にして何組のゲストが来てくださったかスタッフが数えてみました。
74組だそうです。その中でも2回、3回と来てくださった方がありますから実際には延べの数になるとその倍近い数になると思います。
特に加山雄三さんは今年で11回連続の出場でございます。まだジェット風船は早いです。
僕達がなぜ、夏の暑いさなかに広島の空へ向かって長崎で歌ってきたかということなんですが。
僕の叔母が被爆者でおります。
叔母があるとき、僕と話しをしてて。
爆心地から1.5Kmの工場で被爆しています。かなり至近距離で被爆してるんですが、彼女の肉声を聞きたくて何度も彼女の話しを聞きました。
叔母はそのときに、兵器についてこんな言い方をしました。
原子爆弾が落ちたということに関して言うならば、原子爆弾だけが悪いんじゃないんだと、戦争がこういう兵器を次々と生み出してしまう。
原子爆弾の次に恐ろしい兵器を人間は考え出すに決まってる。
一番いけないのは、相手を殺傷するための本当に残忍な兵器を、次々と生み出す悪魔のような心が私達の心の中に必ずある!
叔母も自分である!とハッキリ言いました。その自分の中の悪い心とちゃんと向かい合わない限り戦争は消えないんだと。
決して叔母は原爆が落ちたことを「しょうがない」とは言いませんでした!

僕達の心の中にある悪魔と向かい合うということが、一番の平和と対峙する大切なきっかけになります。

5回 ”山崎まさよし”

「アンジェラ」「妖精といた夏」「One more time、one more chance」「晴男」

6回 ”BEGIN”

「恋しくて」「島人ぬ宝」「かりゆしの夜」「涙そうそう」

7回 ”根本要(スターダスト・レビュー)”

「木蓮の涙〜acoustic〜」「ブラックペッパーのたっぷりきいた私の作ったオニオンスライス」

8回 ”加山雄三”(別項でお楽しみください)

いよいよ最終回です。本当に最終回の最終回の最終回です。
20回歌った、20年歌い続けてきた、その今夜は全部がアンコールのつもりでやってきました。

素晴らしい仲間達が今日も集まってくれて素晴らしい音楽を聴かせてくれました。音楽というものを僕達が守っていく、それが音楽をやっている人間の平和の守り方なんじゃないかと思います。
つまり平和というのは簡単に誰でも手に入るもんじゃなく、守っていくというのはとっても力仕事なんだということ。
我々は一生懸命、これをやっていこうと思います。

思えば”夏長崎から”を始めたときに、第一回のコンサート3千人だったと申し上げました。
あの時の赤字が3、000万円です!一人一万円分損したんです。
あの頃私は35億借金しておりました。自慢じゃありませんが35億の借金があったから、3、000万円が驚かなかったんじゃないでしょうか?
考えてみれば恐ろしいときに始めました。
そして21年間支えて頂いたお陰で、こうして念願だった長崎の日に、広島で歌うということが出来るようになったんであります。

「きみのふるさと」

ずっと20年間同じことを言い続けてきた。
その集大成が今日の21年目です。
もう繰り返し同じことを言う必要もないような気がするけれども、さっきの話をもう一度言います。

平和と言うのは誰かからもらうもんじゃありません。自分達の力で守るものです。平和に過ごすということはとっても力仕事だということを、まず自分の心に言い聞かせてください。

「関白宣言」

平和を守るのは力仕事だと言いました。これは力ずくで押し通すとか、力ずくで守ると言う意味ではありません。
これを守り続けたりするのには、自分の心の強い力が必要なんだ、という意味なんです。

ずっと何のためにやっているんだろうと思いながら歌ってきたけれども、音楽の場所を守ると言うことが、音楽家にとっての平和活動ではないか?
政治活動ではなく、宗教活動でもなく、また思想活動でもなく、音楽活動として平和について考えるとき、僕は歌うことが出来る、聴く事ができるという自由な音楽の場を守っていくことが、音楽を演る人間の一番の仕事だと思ったんです。

そしてこのコンサートが始まったときからず〜っと問いかけてきたことがあります。それを今日も言います。

このコンサートが間もなく終わります。
終わるまでの間、ほんのひと時でいいですから、あなたの大切な人の笑顔を思い浮かべる時間を作ってください。
そして、あなたがその笑顔を守るために、一体自分に何ができるかを考えませんか。
これが平和の玄関だと思います。そしてその笑顔を守るために、自分に何ができるかということを
自分で問いつめて、自分自身に問い詰めて、ハッキリ見えたらそのために一歩動きましょう。

動かなければ何も始まらない。文句を言ってるだけでは世の中は変わらない。自分がまず指し示すことから。
そうでないと、またとっても痛い冬を迎えることになると思います。

「戦友会」

僕の親父は本籍が島根なので広島の連隊に入りました。そこから戦地に行きました。だから親父の戦友会にくっついて、いつも行くところは島根県のあちこちで、島根県というところは生まれて初めて行ったときには裏寂れた、こんなところに父の里があるのか、と不思議な思いで見た覚えがあります。
そして、父の戦友達が沢山広島に暮らしている。僕は生まれて初めてコンサートで広島へ来たときには、全然僕のコンサートに似合わないおじさんたちがずっと並びました。
”さだの息子が来とるけえ、行ってやらにゃあ!”というので。みんなが来てくれたそうです。”意味は解らなかったが面白かった”と言ってみんな帰りました。
そんな人たちに支えられて僕等は今の平和を生きている。
その人たちが何をしてきたかということではなく、そういう時代に生まれなかった自分を、一体どう感じるのかということが今大切なこと。

今の僕達はいいけれど、僕達の孫やその子供達が父と同じように、恨みも無い誰かに銃口を向けなければいけないと思うと切ない思いがします。
なぜならば、どんな人にも愛する人があり、どんな人にも両親がある、その人を生んだ人がおり、そして育てた人がいる。
その人を愛してる人がおり、その人を支えてる人がいる。
あるいはその人が支えてる人が、沢山その人の背中にいるはずの人に、僕は引き鉄を引く勇気はない!

そうやって考えるときに、二度とそうさせないためには何をしたらいいんだろうか。
拳を振り上げて”戦争、反対!”と叫ぶだけではダメだ!ということだけが最近わかってきた。

「道化師のソネット」

こうしてね、段々に終末が近づいてくると、自分の中に去来することが沢山あるよ。
一番最初はねえ、
長崎の原爆落下中心地に一番近いといわれている”長崎松山ラグビー、サッカー場”というところで始めた。
このときに、第一回に来てくれた村下孝蔵くんは今は亡く、一緒にあの時に歌った思いというのは未だに、僕は彼の分も生きてるつもりだ。

こうして、生き残っていく人間というのは、先に逝った友達の思いを背中に背負ってどんどん歩くってこと。
これは重たいね。重たいけど、行けるところまで行かないといけないと思っています。

稲佐山に移ってから15年経つんだけど、稲佐山の会場にね、8月の6日広島の原爆式典に必ず長崎市長は参列しているのね。
12年前に長崎市長になった伊藤一長という男が、僕よりちょっと年上だったけども、非常に明るくて素敵な男だった。あんな死に方をするべき人ではなかったと僕は思っている。
(2007年4月選挙運動中に銃撃され死亡)
非常に素敵で長崎を愛していた人がいて、あの人はいつも
広島の原爆の式典が終わると慌てるようにして長崎へ飛んで帰ってきて、稲佐山の会場にいっぱいお土産を持って現れた。
両手に荷物持って
”まさしさん!これは僕から、こっちは市から”
ちゃんと分ける人だった。
そういうところが素敵でねえ。

県議時代からずっと通っている餃子屋に僕らいつも行くんだけど
”まさしさん、今日はおごったるけん”
”だめ、だめ市長にそんな金出させたらまた痛くも無い腹を探られる、
ちゃんと帳簿に付けといたろかぁ”
”大丈夫たい!これは僕の小遣いやけん!”と言いながら
”こっちは僕の財布”と言いながら自分の財布を出して。
長崎市長の伊藤という人はそんな人でしたよ。

一緒に楽屋で賄いのカレーを食べる、賄いの素麺を一緒に食べた仲です。まあ、僕にとってはこの21年間の中の大事だった戦友の一人といっても過言ではないと思います。

彼があんな倒れ方をして、今日までどんな風に自分の気持ちを整理して、この広島市民球場で、あのことについて自分はこう思ってますと、どう伝えようかと思ってず〜っと悩んできたこの3、4ケ月。
結局ねえ纏まる筈が無い。

長崎が好きだった一つの命が、暴漢の本当に通り魔の銃弾に撃たれてしまった。だけどね、おそらく伊藤一長、元気だったら長崎の記念式典が終わった今日も、きっとこの会場に駆けつけてきたと思う。
さっき”エイショウ”(BEGIN)が言ってくれた言葉じゃあないけど、あっちもこっちも、あの世もこの世もない!きっと伊藤一長はこの会場のどっかの席に座って、あの時とおんなじように扇子で、自分の白いシャツの前をはだけて、必ず内側にランニングシャツを着てるのも叔父さんくさくて嫌だったけど
”いやあ、長崎市民はさださんのこのコンサートの意味を本当に解ってくれとるんかなあ?ありがとう!ありがとう!ありがとう!”
という彼の声が忘れられない!

長崎を諦めない、平和を諦めない、まだまだ日本を諦めない!!

「広島の空」「長崎の空」

「祈り」(出演者全員による)

アンコール

「天然色の化石」「51」「落日」「遥かなるクリスマス」

07年11月15日新設