素晴らしき出会い
1945年の4月といえば、もう敗戦の色が濃く、一般にもいつ終戦を迎えるのか?といった空気だったようである。
空襲警報が頻繁に聞こえ、子ども心に僕はワクワクしていたような気がする。
そんな僕が八歳(国民学校二年生)になったばかりのある日、きれいなハーフの女性が、我が家を訪問した。
当時まだ十六歳だったというが、「きれいなお姉さんが来た」という印象がある。
まさか、叔父と結婚するとは知るよしもなかった。
どういったきっかけだったのか、彼女がオルガンを弾き始めた。
いつも耳にする母が弾く音とは違う。レコードの音とも違う。新鮮な気持ちがした。いてもたってもいられず、僕はオルガンの横で、器用に動く彼女の指先に釘付けになっていた。
その時空間をなんと表現したらいいのだろう。そこだけ切り取り、別世界のようだった。
口の中がはりついたようで、なかなか言葉が出てこなかった。そして発したことといえば、「その曲を教えて」だったのである。
どうしても自分で弾いてみたい気持ちを抑えきれなかった。
親は僕の探究心の強い性格を知っていたので、苦笑しながらも、僕の頼みを封じたりはしなかった。
「しつこい子ね」と思ったかどうかは知らないが、丁寧に教えてくれた。
後から聞いたところによると、「だいたい一時間半くらいで、すべてマスターしちゃったわね」とのことだった。
彼女は暗譜して弾いていたので、指の動きと鍵(けん)の場所をしっかり頭に叩き込み、何回も何回も無我夢中で練習した。
始めから終わりまで、間違えずに弾けた時には、「できた!」という達成感で、もう嬉しくて感激してしまった。
バイエルの74番というのは、一分六秒くらいの短い練習曲。それを一時間半も、初めて会った僕にじっと付き合ってくれたのだから、彼女も大変だったろう。
とにかくそれからは、バイエル74番を飽きることなく弾いていたのを覚えている。
その年の七月には平塚空襲があり、茅ヶ崎にも焼夷弾が落ちたので、ひたすらオルガンを弾いて気を紛らしていたのかもしれないし、戦火の真っ只中だから外で遊ぶわけにもいかなかったのかもしれない。
大人たちは、何やら戦況を予測していたようだが、僕はまだ小学生だったから・・・。
とにかく、それからだと思う。音楽というのは、聴くだけではなく、自分で弾いて楽しむこともできるというのを感じたのは。
上記文章は加山さんの著書「I AM MUSIC 音楽的人生論」(講談社 2005年4月11日 第1刷発行)の第一章 音の原体験 素晴らしき出会い より原文そのままで記載しました。
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