「激動の70年」
住吉)翌年も出場されるんですが、その後数年、出場されてない年があります。ここには、人生でほんとにこの時期いろいろなことがあったということで。
まず、1970年に、5月にお母様が亡くなられて。

早かったですよね、52ですからね、52の誕生日過ぎてから一ヶ月くらいですからね。

住吉)同じ年の7月に役員を務めていらした叔父様の会社が倒産。

そうでっすね、激動の70年ですと自分で言ってますけどね。ほんとにすごかったですね。

住吉)その時期はかなり落ち込まれたとか。

落ち込むというよりも、どうしていいかと言うほうが大きくて、やるべきこととか、結局ね、ずるいですよ、逃げちゃったんですよ。日本から脱出して、アメリカへ行ってたんです。そこでいろいろ考えて、今の家内と付き合ってたのが、ヨーロッパに行くとか言い出したから、電話かけたんですよね、「なんでよ?」「心の整理をする」それはいろいろありまして、「ヨーロッパの、どこ行くんだ?」「イタリーだ」って「そんな一人じゃ危ないから行くな!」って言いながら、なけなしの貯金、バイトやってましたから、それをはたいて行ったんですよ。それで、ロサンゼルスまで行って結婚したんです。だから、凄いことですよね。

住吉)1970年9月に、結婚されてますよね。大変なことがあった直後に、イタリアまで追いかけて行って。

だから、余り反省してないですね。責任感じてないところがあると思うんですけど、記者会見で、何もかも失ったところでもって、心の支えになるものを必要じゃないかなっと思って、それを土台にして頑張るぞ、とちゃんと言ってるんですけど。

だから、凄いことですよね。

「甘い、甘い!」って記者に言われましたね、それは甘いでしょうけど、だけども本気で、ちゃんと空洞を埋めたいというか、頑張りましたからね。

住吉)借金を返すためにもかなり、生活を切り詰めたとか。

切り詰めたというもんじゃなくて、ないんだから。食べるもんがないんだから、友達ン家へ行って食べさしてもらったり。やっぱ友達は、大事だと思いましたね。家内のお母さんが、カウンター割烹のお店をやってたんで、そこへ行くと飯食わせてもらえたり。でもそういうのは、若かったから、”屁”でもないって言っちゃ言い過ぎですけど、そんなことでへこたれることは無かったですね。

住吉)今をガンバリ抜こうという気持ちで?

それと、僕は海を愛してて良かったのは、海の仲間がね、他の人たちは去って行くんですよ。いなくなっちゃうんですけど、本当に利害関係のまったくない、海の仲間とか、学校の同級生とかが、顔色一つ変えないで普通に付き合ってもらえたというか、それがすごい支えになって、力になったと思えるんですよね。食うもんなくなったら、海へ潜ってワカメとったり、魚釣ってそれ食ってりゃあいいじゃないですか。米ぐらい持ってきますよって、言ってくれて。そういうのに支えられて、船は差し押さえられてましたけど、一応船があったので、その船の中で生活したり。

11年01月06日新設