加山雄三・池端信宏トークショー
(長岡市 5月6日)       
「アオーレ音楽祭」の翌日、アオーレ長岡で加山さんと信宏さんのトークショーが開催されました。加山さんの言葉を中心にレポートします。
K・Tさんからご提供いただきました。ありがとうございました。
トークショーは、定刻を若干過ぎて始まりました。直前に加山さんの奥様が、会場に姿を見せられ、最前列右側に用意されていた席に座られました。ほどなくして、加山さんと信宏さんが登場されトークショーが始まりました。
始まりは・・・。

大変長らくお待たせいたしました。こいつ(信宏さん)がトイレ行ってたもんで。ほんとにごめんね、大勢来ていただいてありがとうございます。

信宏)ありがとうございます。

司会)昨日は長岡音楽祭に出演していただきまして盛り上げていただきましたね。

昨日は、ホールの方でもってオープニングセレモニーって言いましょうかね、この会館のオープニングの一環として約4,500人?

信宏)3,400人。

あ、ごめんなさい。3,400人のお客さまに来ていただいて、満員のお客様の前で素晴らしいゲストが来てくださいまして、こいつ(信宏さん)がプロデュースしたんですが、最初すごく心配しましたけども、素晴らしいゲストの方々に支えられて、とてもお客様に喜んでいただけたと、森市長さんの方からお褒めの言葉を頂戴しましてね、嬉しかったです。

振り返ってみますと、5年ぐらい前に初めて彼(信宏さん)の花火を観に来ました。そのときにこの長岡の花火の凄さを、まあ絶句したというか、凄い花火だなあと、世界一だと感じましてね。それ以来、毎年、みんなに「凄いぞ、凄いぞ」と言いながら来ることになりましたが。ご存知の黒柳徹子さんも毎年来るようになりました。泉ピン子さんも来るようになりました。みんなテレビを通してだけじゃなく、実際に会った人たちに「凄いぞ、凄いぞ」と、何が凄いのか、花火が凄いのは確かなんだけども、それを上げる準備から何からすべてやってきた、その長岡市の凄さと花火の意義というか目的が最初は復興から始まってるという。戦災の復興から始まって長岡の人たちが、皆さん力を合わせて元気に頑張って、どうしようかと、そういう気持ちから生まれて、そしてその後は、震災が起きるたんびに、震災の復興を念じて、本当に大きな力を発揮してそして現在の大きな花火大会に・・・。そういう気持ちを感じながら、受け取りながらあの花火を見るともうほんとに涙が止まらなくなります。

去年、仙台のほうへこちらから花火を持って行って復興支援花火をあげたとき、仙台の人たちがそれを見て涙を流してやっぱり心を一つにして、頑張って行こうよという気持ちにさせていく力が、この花火にはあるんだなあとつくづく思いますね。そしてまたこちらに縁のある直江兼継という方の物語がたまたまNHKで始まったときに、こいつ(信宏さん)が仰せつかって「天地人」という花火大会でやるからそれをお願いしたいということを言われましてね。それで曲を作ってそれに合わせて・・・。

ほんとにガキの頃から花火大好き人間だったんです。実は私が大好きだったんです。もうほんとに花火を子どもの頃にいろんな所で上げてやるともう喜んで、それで16歳からアメリカへ留学したときに、向こうで花火師の免許を取って。そういうことをやってのけたんですね。そして帰ってきてから、たまたま僕が好きだからっていうことで、花火をどっかで上げたいなあ、それで湯沢でもってスキー場をやってたときに、夏もなんかイベントをやろうと思ったときに、こいつ(信宏さん)に花火を上げさせたんですね。そっから味を占めたらしく・・・。

信宏)アメリカに居たときに、さんざん町の花火大会を手伝わせてもらったりとか、参画させてもらって楽しい思い出が沢山ありまして。長岡市の皆さんが(僕の)夢を一つ叶えてくださった。本当に感謝感激です。

長岡市民応援団

司会)加山さんは、長岡市民応援団のメンバーにこのたび選ばれたわけなんですが。長岡の魅力、期待するところってどんなを部分ですか?

復興する力というものは、すべての心の中から本当に心をひとつにしたときに生まれてくるものだということを長岡が我々に教えてくれている、すべての人たちに教えてくれている、そういう発信の地であるということがまず一つ。

それからここに住んでいる皆さんがなにごとにつけてもやる気を持ってらっしゃること、来るたんびに感じるんです。それこそ、日本のいろんなところ、いろんな町へ僕はコンサートで行きますけれども、ほんとに心の温まる接し方をしてくださる方が多いんです。昨日も僕は、それをステージで言ってたんですけど、小椋佳さんが「あんたそれ、どこ行っても、言ってるんでしょう?」って、そう言われましたけど・・・。確かに、いろんなとこで同じようなことを言うこともありますが。ここに来てからは、やっぱりね倅がお世話になっているということもあるんですけれども、皆さんと接する機会が多いので、暖かい人が多いすね。そして皆さんやる気を持ってらっしゃるというか、それをすごく感じるんで、復興の最先端を行って、リードしているようなそういう気持ちもあるんじゃないかということを感じます。

司会)加山さんは1968年、三船敏郎主演の「連合艦隊 山本五十六」という映画に出演なさっていますよね。

まあ、出たらしいですけど。(会場爆笑)

司会)お若い頃とお伺いしたんですが。

いやあもう、映画はどんなんだったか全然覚えてないです。若い頃ってなんでか全然覚えてないんですけど、山本五十六という方の凄さというのは歴史を知ればすべてわかるし。今もし、この世の中に山本五十六のような方が国のリーダーとしていたら、これは凄いことになっているんじゃないかなということはわかります。映画の内容は忘れました。

司会)日本酒の五十六(いそろく)の揮毫(きごう)もしてくださって。(その五十六(いそろく)を持っているファンの方がいて)

ありがとうございます。五十六(いそろく)っていうのは、五十六(ごじゅうろく)って、なんべん紙に書きましたか。さまなんないんですよ。皆さん、書いて見てくださいよ。どう考えても確かに五十六(ごじゅうろく)なんだよね。なんべん書いても、これは「違うなあ、違うなあ」って。どれだけ書いたか。それでやっと、これだなあと。ちょっと崩し気味にしながら、出来上がったんですけど。

子どもの頃の信宏さんは?

司会)今お聞きするとサクセスストーリーばっかりですけど。

今、こんなに偉そうなこと言ってますけど。ガキの頃は、どうしようもない、ハッキリ言って出来の良いほうじゃないんですよ。

信宏)いやいや。

黙ってろ!?ほんとに親としてはね、苦労しました。未熟児で、7ケ月で生まれたんですね。親としては、この子は無事に育ってもらいたいと、それだけを祈りながら一生懸命育ててきたんですが、小学校に入ってからもうエピソードは数え切れないくらいろいろいろあるんですけど。

運動会のときに、練習するわけですよ。1周200メートルもないトラックで、100メートル走の場合、真っ直ぐ行くと足りないんで、こう曲がってこの辺がゴールになるんですが。先生がヨーイ、ドン!ってやると、普通はみんな向こうへ向かって走るのに、こいつは反対に走り出すんです。後へ周ったそうですよ。先生が、
「お前の倅は、おかしいぞ」と、こいつ(信宏さん)が帰ってきてから
「お前、なんでみんなと違う方向へ走ったんだ?」って聞くと
「だってこっちの方が近いもん!」
って、そういう奴でした。

それから音楽の時間に、
「はい池端君、これは何調ですか?」先生が聞いたらば、机の上に乗ったかと
思ったら、「はい、カ長調です!」
先生は、私のことを・・・。

信宏)○%□*△%△*!

黙ってろ!?作曲家だということを知ってますから、先生がバカにされたと思って烈火のごとく怒って、呼び出されたんですよ。
「どういう教育をなさっているんですか?何調ですかって聞いたらカ長調と答えた、それは相当私をバカにしています」と。
「先生そうじゃないんです。なんだか知らないけど、ひらがなでないと思ってカタカナで答えておけば合ってるんじゃないかと思った」と、もうほとんどバカです。どうしようもないと思ったんですけど、まあいいやと。そのうち自分でピアニカの小さなやつをもって、メロディを弾き出した。こいつ、なんか自分で考えてやってるなと。
「才能があるのよ」ってカミさんが言うんですよ。
「才能が有るか
無いかは、そんなことは今決めるもんじゃない。」
「ピアノ習わした方がいいかしら?」
「そんなものは自分でやる気になったら
習わせればいい、将来音楽家として、ピアニストとして育てるならば、3歳ぐらいからやらさないとダメだけど・・・」と、いうような話をしました。そのうち自分でどんどん、どんどんと聞いているんですよ。耳で覚えていくんですよね。
「あ、これはもしかしたら
音楽好きなんだな」と。

2歳半ぐらいのときのエピソードですけど。車に乗ってましてね、うるさいんですよ、もう。ギャーギャー騒いでる。「いい加減にしろ!」って言いたくなるくらい。そんなときに、ラジオから「コンドルは飛んでいく」というインディオの民謡、ケーナで吹いた曲が流れてきたんです。そしたら、ピターっと騒ぐのやめて、黙って聴き入っているんですよね。こいつは面白い感性をしてるかも知れないなあと。それからまた、同じように騒いでるときに、うるさくてしょうがないからCDをかけたんです。そしたらまた、とまって静かに聞いてるんです。不思議なことが起きるなあと思って。何百年も前の曲を、こんなに小さい子が聴いてる。何かを感じてるというのはもしかしたら、音楽というのは、最初は祈りだったから、人の心に入ってる何かを素直なものだったらわかるのかも知れないなあというのを感じて、それから小学校に上がってから「カ長調事件」があって、これはもうダメだって。

ところが、卒業するときに、どういうわけか、クラスのみんなが選んだ曲が「コンドルは飛んでいく」で、演奏することになって、そしたらなんと烈火のごとく怒った先生が指揮をこいつに命令したんです。
「池端君、君指揮をやりなさい」って。
笛吹けなかったからですけど。

信宏)そのとおりなんです。

それでね、その演奏会のときにね、そりゃ家のカミさん、ボロボロ、ボロボロ涙流して、そりゃあ大変でしたね。でも、そういう先生の優しさというのは、生涯忘れないもんだと思うんですよねえ。本人もやっぱりそれが良い思い出になってると思うんですがね。

まあ、それから僕が曲を作っていたんで、(彼は)いろいろ曲を作りました。ロサンゼルスにいる頃から、昔ランチャーズというバンドにいた、僕の従兄弟の弟(喜多嶋修さん)の方が、スタジオミュージッシャンをやっていたんですね。こいつ(信宏さん)が作曲したのを見て
「キョランタ(加山さんのあだな)、ノブの曲は凄く良いよ。あれ、作曲の才能あるよ」って、言ってきたんです。
「じゃあなんか
手伝ってやってくれよ」って言ったら、ロンドンでレコーディングして、アルバムまで作っちゃって。全然売れませんでしたけど。

ただ、ビックリしたのは、NHKの天気予報を見ていたら、このメロディ聴いたことあるなあ、もしかして家の倅、これをパクったのかなあ?そうじゃなくて、こいつ(信宏さん)のが、流れてたんです。メロディ的には認められたと思ってよしと、売れようが売れまいがいいんだ。ということで、私は得心を得たんです。

とにかく彼が作る曲というのは、自分で打ち込んで作ってる。楽譜なんか読めませんから、書けませんから。僕も最初の頃は、初見がきかなかったですからね、耳で覚えるのが大切で、耳で覚えたものは絶対に良いんだって。忘れませんから。そして演奏を湯沢フィールド音楽祭でやったときに、僕のことをプロデュースしてくれている有名なフジテレビの石田弘という大プロデューサーが、その人が居るときに花火に合わせてやったんです。そしたら、(石田さんが)
「ノブ、親父を超えたなあ」とそんなこと言いやがったんですよ。それから、図に乗っちゃって。「天地人」花火まで
やることに、「あのやろう、簡単に引き受けやがって」と思ったんですけど、出来た曲が良いんだ。まあ、親馬鹿だから言うんですけど。
今回も「絆}という曲を作って、これもまた良いんですよ。僕は何も教えなくて良かったなあと。音楽というのは、身体で耳で、触れて感じて覚えていくことが一番大切なことと思いましたから。

司会)信宏さんのご活躍についてご家族のお気持ちは?

k家は子ども4人おります。一番上なんです。他の3人に比べると彼が一番僕に迷惑かけてないです、ほんとに。いつまでたっても、親と子というじゃなくて、ゲームをやり始めてから、単なる男と男という、友だちみたいになったんです。

信宏)ゲームに関しては凄いですよ。

その(ゲーム)話は(しなくて)どうでもいいの!

念ずれば花開く

まあ頑張っている。さっきも、偉そうなこと言ってましたよ。夢を持って念ずれば花開くっていうことを。

信宏)でも、親父が言ってくれたことで嬉しかったのは、自分で言うと手前味噌になっちゃうんですけど。
「オレの人生の中での最初の成功は、武道館でお客さんが4,000人だったけど、お前の人生の最初の成功は、それにゼロが二つ多くついた40万人だった」って。
もちろん、それは花火大会のために集まっていただいたお客さんなんですけど、それをあえてそういう風に言ってくれた。すげえ嬉しかったですねえ!

俺、そんな良いこと言ったか!?

司会)覚えていらっしゃらないんですか?

いや、覚えてないけど。たまには良いこと言うんだな。大事なことは、ここぞというときにとっても喜ぶことを言う、それが大切なのかもしれないねえ。普段はいろいろ迷惑かけてる女房にもね、ちょっと声かけるとね、お父様素敵ねえなんて思うかなあなんてね、居るかな?

司会)笑ってらっしゃいますよ。

居るから言ってるようなもんで。人と人との関わり合いというのは、理屈じゃないという部分があるじゃないですか。理屈を超えたものを長岡の方と接することによってね、非常に強く感じました。

提督から将軍へ

日本は、これから本当に試練を迎えなくちゃならない、今の政治の状態がすべてを物語っております。どうしてそうなったのかなあ?みんな一人ひとりが3.11以来、心の中で何かを考え始めたと思います。それがだんだん、だんだんこう、線が繋がっていくところに。その線を繋げる大きな役割を担うのが、この長岡の皆さんの復興の精神なんですよ。それの一つの象徴が花火大会なんです。

来年、市長に立候補しちゃおうか!?私が政治家になったら、「私はお暇させていただきます」と言うのが、家の家内なんです。前にもね、総理大臣になったらいいとかね、衆議院選に出てくれとか、どれくらい来たか!?そのたんびに
「ちょっと考えさせてくれ。
お国のためになるのかなとか、思うんだけど」
「あたし貴方が政治家になるんならお暇させていただきます」とハッキリ引導渡されてます。
森元総理大臣も電話かけてきて、
「加山君、やってくれる?」
「実は、家の家内が貴方が政治家になるならお暇させていただきます」と
言われてるんですと言うと
「じゃあ、しょうがないなあ」と。
だから、現在歌を歌っておられるんです。

司会)奥様のお力で歌を歌えていると。

いや、お力と言うか・・・、お力でしょうか?。アドミラルですから。ほんとに面白いです、ありがたいです。
アメリカで、どうしても
僕がアメリカの免許を取らないとならないときにね。アメリカの免許というのは、住んでいるとか、あるいは、納税証明書とか条件が6点揃わないと受験をする資格がもらえないんです。家内のほうが先に取ってたんですよ。そして僕が受験場へ行って、苦虫を潰したような親父と、オバチャンとかが並んでるとこへ行ったんですが、一つ足りなかったんですよ。
「一つ、足りないよ」すると家内が
「私が証明するから」
「貴女なんだ?」
「私が大丈夫だって言ってるんだからいいじゃないの!」そしたらその親父がね、じ〜っと
カミさんを見て、それから僕を見て
「この女性は、(お前の)何なんだ?」
「あ、これか?アイ・アム・ザ・キャプテン、バット・マイ・
ワイフ・イズ・アドミラル」そしたら、ウワ〜って笑ってるんだよ。「私は船長だけど、彼女は提督なんだよ、俺の女房だよ」って。そこにいた職員が全員のけ反って笑ってるんです。ウケちゃった!?それで、受けて良いとなった。さすがアドミラル!それで受験したら96点で受かったんだよ、俺!
帰り際に「どうだった?受かったか?」って、
「受かった、受かった!
ありがとう」って言ったら、
「アドミラルが今度は将軍になってたんだよね」って。

信宏)俺は花火のときは92点だったけどね。

お前、そんなに点数が悪かったの?1,000点満点でしょ?

信宏)100点満点だよ。

船の試験っていうのは、1,500点満点なんですよ。

信宏)それは大型船舶?

大型の場合。それで俺は、1480点だったけど。
(でんでんの知ったかぶり。。。加山さんは膨張という漢字を間違えられたそうです)何、親子で競い合ってるんだか。こんなんじゃ話になんないよ!

信宏)〆られなくなってきた。

このあと、長岡商業高校吹奏楽部の生徒さんたちが待つ特設ステージへ親子3人で向かわれ、演奏を聴かれた加山さんは、吹奏楽部の伴奏で「旅人よ」を歌われるなどして、皆さんを喜ばせられました。

2012年06月07日新設