パワーのみなもと 1(海と船)
 光進丸火災について

阿部)まず、そのみなもと、一つ目は、こちらです。海と船。そして相棒と言って良いでしょうね。
   光進丸ですが、残念ながら今年4月、焼失という事になりました。

はい、沈没しちゃいました。

阿部)その時はどんな状況だったんですか?

コンサートの一番最後で、沖縄でコンサートやってて。コンサート終わって、打ち上げの場所に
行った瞬間に電話がかかって。船が燃えてます。単独で燃えてますって。だったら、それは幸い
だと。辛かったですね、やっぱり。その後、一週間以上寝込んでましたね。自分では、それほど
のショックではないと思ったんだけど、記憶にないんですよ。点滴を3回も受けたって。
それだけショックで、人間ってスゴい変わる。精神的なものというのは、恐ろしいですよ。
記憶にないんだもん。

船越)ほとんど人生を共にされてきた?

船は68年間、必ず傍にありましたからね。14歳で最初に船を造り始めたじゃないですか。
皆さんが生まれる前からのつき合いですねえ。

船越)焼失した光進丸が3代目ですね?

光進丸という名前としては3代目ですけども。自分で造った船では23隻目なんですよ。船が
ずっと相棒としてあった。それが無くなった。非常に辛いものがありましたね。設計するのも
出会いなんですけれども。小学校5年生ぐらいの時に、算数を勉強しに行っていた学生さんが、
商船大学の、造船技師の卵だった。そこで、設計図を見たんですよ。こうやってやるんだ!?
図面を描くための道具を使うことや、三面図(注:正面図、平面図、右側面図)を描いたり。

というのを覚えて。見てたんで、見様見真似でやってる内に、自分でどうしてもやってみたく
なって、やったんですけど、描けない事はないんですよね。今度は造りたくなって。茅ヶ崎
には、沖に烏帽子岩がある。その島にどうしても行きたくて、造っちゃったんですよ。

  

船越)最初に造られたのは、どんな船だったんですか?

阿部)ちょっとお待ちください。それは後ほど、ご紹介するといたしまして。
まずは光進丸がどんな船だったかという事を映像で紹介させていただきます。

すいません、どんどん先走っちゃって。

阿部)加山さんが光進丸の中でインタビューを受けてらっしゃる映像があります。この様子を
ご覧いただきましょう。こちらが光進丸ですね。加山さんご自身で設計された?

設計といってもですね、一般配置図です。

阿部)こちらが操舵室ですね。

あっ、黒崎さんだ。(操舵室を説明する加山さん)

阿部)この光進丸には、寝室、バーカウンターやリビングがあります。ここでカラオケも楽しむ
   事が出来るんですね。そして奥にはキッチンスペースです。IHコンロやオーブン、電子
   レンジなど本格的な料理が出来るほどの設備です。ここで作った料理を仲間に振る舞って
   いたという事です。

船越)ご覧になると、ちょっと辛いものが。

いや、いろいろな幸せをありがとうって、感謝の気持ちでいっぱいになりますよ。

船越)37年間、お乗りになった?

38年前に作りましたけどね。その間にですね、楽しい思い出がいっぱいあります。いろんな方に
来ていただいて。一生懸命料理を作って、皆さんが喜ぶと嬉しいんですよ、それが。

船越)”相棒”というよりも”分身”ですね。

美保)引き継いでいるマークとか、あるんですか?

「光進丸」(or「KOHSHINMARU」)という字。書家の先生に名前を書いてもらった。
初代から、大きさを変えて。それだけ焼け残ってて、あります。

期間限定で動画でご紹介します。

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 光進丸火災について

阿部)では初代からの光進丸、こちらでご覧いただきましょう。初めての光進丸、54年前という
   事ですね。初代から始まりまして、2代、3代目。だんだん大きくなっていますね。かなり
   遠くまで行かれたそうですね?

一番遠くは、グアム島ですかねえ。途中、小笠原の島々を潜った時が一番楽しかったなあ。サメと
一緒に泳いだり。サメにもいろいろな種類があって。危険なサメとフレンドリーなサメが居て。
そのフレンドリーなサメと。サンドタイガーシャークのヒレ掴んで、泳いだんですよ。
地元の漁師さんに、そんな事する馬鹿どこにも居ないぞ!って。船員が一人、噛まれてちょっと
穴が開きましたね。

美保)ジョーズですよ、ジョーズ。

阿部)最初にお作りになった船、見ていきましょう。歴史を振り返りましょう。
   最初の船、こちらです。14歳の時、カヌー。これは二代目のカヌーですけども。

こういう形のやつは、世界に一つしか無いと思います。非常に簡単に作れて。たった一人乗る
つもりが3人乗っても大丈夫だった。毎年1隻づつ作ってたんですけどね。

船越)14歳で、これ。ご自身で彫ったりもしたんですか?

彫っては、いないんです。竜骨を組み立てて、それに板を張って。

船越)手作り?

もちろん手作りですよ!

美保)絶対水漏れしちゃいますよね。

非常に簡単なね。簡単、簡単。シーツの要らないのをもらって、それをラッカーに入れて。その
まんま張り付けちゃう。乾いたら一滴も洩らない。凸凹はちょっとあるんだけど。そんな事は
関係ない。ちょっとしたアイデアだったと思うんですけど。友だちと二人でね。

阿部)その後大学時代には、合わせて8隻造ったそうなんですが。こんな船をお作りになり
   ました。モーターボートですよ。

エンジンが無きゃあ走らないでしょう。ウチの親父が2か月ぐらいロケで居なくなった時が
あったんですけど。出かける前に、モーターボートを造ろうと思うけど、もしも出来たら
エンジン買ってくれるか?って言ったら。絶対出来ないと思ったんでしょう。あ〜良いよって、
出かけちゃった。完成して、エンジン買ってくれるよね、って言ったら。お前が造ったのか?
嘘つけ!?って。そう言うだろうと思って、途中の作業の様子を写真に撮ってたのを見せたら。
わかったって。中古のエンジンを探してきた。外国の方が売りにだしてた安いのを。それを
着けて進水式をやったら、気持ち良いぐらいかっとんだ。

美保)スゴ〜い!

阿部)なぜ、ここまで船がお好きなんですか?

他に何もすることがない環境の影響だと思うんですけど。茅ヶ崎の海の傍でずっと育ったんで。
今だったらゲームもあるし、遊ぶ事がいっぱいあるじゃないですか。海に潜って、魚突いたり
とか、釣りをするとか、シーズンオフになったら乗れる船を造るとか。そういう工夫だけで、
やってたんですね。

 光進丸火災からの立ち直り

船越)ここから始まって、37年間愛して止まなかった光進丸。どうやって立ち直られたんですか?

僕は立ち直ってばっかりいますけどね、挫折が多いもんで。燃えてるって聞いた時に、地元の
皆さんにご迷惑をかけてるなと思ったら。地元の皆さん全員が出てきて、船を出して消火活動を
やってくださったんですよ。それだけで、有難い事だと。どれだけ感謝してもしきれないくらい。
今でも、その気持ちでいっぱいですよ。寝ずにやってたんですよ。眠くなったら道路に寝っ
転がって、仮眠とって。ものスゴい長い事かかったらしいんですよね。いろんなものが燃えて
いくというのは、相当なエネルギーを持っていると思うんですけど。幸いだったのは、皆さんが
一生懸命やってくださったおかげで沈没したことが良かったんですね。沈没しないで燃えてて、
燃料タンクが熱でハッチャケて、湾中火事になったら船が全部ダメになったと思うんですけど。
それがなかった事が。皆さんのおかげですね。

阿部)今も火災の原因がわからないそうですが、火災当時と今とでは船に対する愛情、お気持ちは
   変わりませんか?

船に対する気持ちは、感謝の気持ちです。光進丸よ、ありがとう!ですね。幸せをありがとう。
沈んだものは引き揚げないといけないじゃないですか。引き揚げに来た船が”こうしんまる”と
いうですよ。これは驚きましたね。”幸”の”神”の”丸”と書いて”幸神丸”。お前はこんな
もんで遊んでるんじゃないぞ。他にやる事がたくさんあるだろう。これで私(光進丸)は居なく
なるけど・・・。運んでくれた船が神様ですよね。これは偶然じゃないなと思ったんですよね。
船は諦めてるわけじゃないんですけど、もし船造るんだったら、人様の役に立つ、自分の事じゃ
なくて。何か役に立てるものを作れるとしたら最高だなと。

阿部)4代目という事になるんでしょうか?

気持ちだけは、ありますけどね。

期間限定で動画でご紹介します。

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 光進丸火災からの立ち直り

2019年03月28日新設