新田)池袋や新宿でオールナイトで「若大将シリーズ」が上映されるように
なってね。特に大学生中心でどんどん膨れていくのを見てて、益々
加山さんのファンになっていったんですよ。見てるうちに、”田沼
雄一”さんという俳優は、加山雄三さんの実像なんだという風に、だん
だん感じて行くんですね。何回も見てると癖もわかってきて、これは
加山さんそのものなんだという風に思っていくんですね。
僕たちが未だ学生時代に、東芝は加山さんにレコードたくさん売らして
もらって、大変儲けさせてもらったんですね。冬の時代なんて言わない
で、6年間も(オリジナルアルバムを)出さないなんてことをしないで、
ぜひレコードを作ってください、と。加山さんのほんとのファンは待っ
てますよ、と言ったんだけど、中々受け入れてもらえなかった。それで
制作本部長に担当させてくださいって、直訴したんです。それで僕は
加山雄三さんの担当になれた。
茅ケ崎の駅前に「雄三通り」という看板を発見したんです。そのことを
加山さんに伝えたら、加山さんは知らなかったんです。それがきっかけ
で、加山さんの幼少の頃から今日に至るまでの舞台になった茅ケ崎を
テーマにした、加山さんの青春のドキュメンタリーみたいなレコードを
作りたい、と考えたわけです。
もう一つは、いつも曲先行で作ると曲調が似てくるんではないかと思っ
てね。今回は詩が先行で、それに合わせてメロディーを作る形をとれ
ないだろうか?と。今でいうJ−POPとかニューミュージックの流れ
というか。そういったスタッフで作ろうということになった。当時まだ
そんなに売れっ子ではなかった、でも才能が輝いていた松本隆さんで
いきたいと思って、加山さんに話をしたところ、非常に難色を示された
んですよね。松本隆さんが嫌だというんではなくて、ずっと岩谷時子
先生とやってきたのに、それはダメだ、と。申し訳ないという気持ちが
強かったんですね。それも良くわかるんだけど。最終的には納得して
いただいて。加山さんの成城のお宅に松本さんをお連れして、それで
どんどん親しくなって、いろんな話が出来るようになって。”今度、
光進丸に来てよ”という話になって。松本さんと私と光進丸に行くよう
になって。{若大将シリーズ}の映画の話とか、小学生の時に、茅ケ崎
でロケット遊びをした話とか、いろんな話を聞いて。松本さんは、それ
を大学ノートにメモして。 |