加山雄三50年の軌跡
 〜家族のきずな・音楽のきずな〜

   (8月17日 NHKBS2)

加山さんの芸能生活50年の年に、NHKが特集番組を制作してくれました。「古希」の時の「永遠の若大将」とは一味違った、素晴らしい番組です。その中から、加山さんと、奥さんのめぐみさんのインタビューを中心にレポートしました。
ただ、残念なことに、いくつかの誤りがありました。その部分も指摘しました。皆さんはどう思われるでしょうか。
武道館コンサートの様子
散歩する加山さん夫妻
(でんでんのなぜ?)
お孫さん二人と仲良く散歩する加山さんご夫妻、でもナレーションでは、お孫さんであることを紹介しませんでした。なぜ?
めぐみさんインタビュー
(イントロダクション)
タイトル・バック
「旅人よ」
 VTR
(2002年NHK「ACOUSTIC SAILING 加山雄三
2002 光進丸」より)
お孫さん二人(長女、真悠子さんの二人の息子さん)と散歩する、加山さんとめぐみさん。
加瀬邦彦さんのインタビュー
加山さんのインタビュー
(ピアノを始めたきっかけ)
「夜空の星」
 VTR
(1976年 NHK
「加山雄三 39歳の青春」より)
友人峰岸さんのインタビュー

1960年、大学を卒業した加山さんは、俳優を目指し、東宝と専属契約を結びます。三船敏郎主演の映画「男対男」でデビューを飾りました。翌61年には、「若大将シリーズ」がスタートし、青春スターの道を駆け上ります。
そして、シリーズ6作目となる、「エレキの若大将」、この撮影の時、運命の出会いが訪れるのです。

「エレキの若大将」でのお二人の共演シーン

(でんでんの知ったかぶり)
初めて口をきいたのは「エレキの若大将」ですが、加山さんとめぐみさんが初めて出会ったのは、「赤ひげ」のオーディションのときです。めぐみさんは、登の相手、まさえ役の有力候補でした。
(「若大将の履歴書」参照ください。)

主人はもうあのときは、スターでしたし、私などはスタジオの片隅で、それこそ大した役でもございませんので、小さくなってましたけど。視線を感じるので、見てみると主人が見てましたね。何日間ぐらい撮影で一緒だってでしょうか。そのときに、いろいろと話かけてきたり、私の目の前に座ってても、見ない振りして目つぶっているんです。
薄目開けてみてるんですよ・・。
目つぶってるから、なんとなく私は黙って、「あ〜、この人が加山雄三さんなんだ」って、いう感覚で黙ってじっとみてたんです。ふっと見てみると、薄目開けてみてるんですよ、「いやあ恥ずかしい」と思って慌てて下向いたりなんかしてましたけど。
最初にかみさんに会って、可愛いなと思ったんですよ。最初に声かけたときにね言った言葉は忘れないね。
「この世界は悪い奴が多いから、気をつけてほうがいいよ」って。結果的には一番俺が悪かったんだけど。

(懐かしの撮影所で話す加山さん。)

「撮影所ではね、人がいっぱいいるから、送ってってあげるよって言われても簡単に車に乗って送ってもらっちゃあだめなんだよ」って言ってくれたんです。この人良い人なんだって思いますよねえ。そういう感じの乗りでしたね。

この映画をきっかけに本格的な交際が始まります。二人はそれぞれ不規則な撮影の合間を縫いながら、デートを重ねました。

ほとんど、彼の家か、光進丸ですね。あとは私が撮影している国際放映で、「今日は夜中までかかるから何時になるか、わからないから、会えないと思うよ」って言ってるのを、お弁当作ってきてくれて、砧公園で、今みたいに携帯なんかないんですよね。
朝、白々と明ける頃終わったんですよ。で、行ったら待っててくれて、作ってくれた熱いスープだとかサンドイッチだとかを食べて、あの当時だから出来たことなんですけど、そのまんま茅ヶ崎の家に行ったことがあります。

撮影が延びるということは、経験してるし、時間通りに終わるとは限らないというのは分かってるし、予定を決めてたから、どこかへ行ってしまうような無責任なことはしない、車の中で寝れる人だから、「果報は寝て待て」っていうし。(笑い)

正に薔薇色の恋人時代。
この頃の加山さんは、自信に満ち溢れていました。

「お嫁においで」
 VTR
(2002年 NHK「ACOUSTIC SAILING
 加山雄三2002 光進丸」より)
「果報は寝て待て」っていうし。 この人良い人なんだって思いますよねえ。
ところが1970年、母の突然の死を境に、加山さんの生活は荒れ始めます。さらに別の女性タレントとのスキャンダルも発覚します。

(でんでんのなぜ?)
 週刊誌の記事が映し出されますが、この記事は加山さんが撮影の帰りに、起こした交通事故の記事で、一緒に同乗していた女優さんは、とくに付き合いがあったわけではありません。何でも載せればいいというものではないと思います。

いろんな女性とつき合っていて、いろんなことが露見し出したときに、主人の生活が余にも荒れてたんですね。それで、母に言われたように、彼についていくのは難しいなって感じたので、私の中では、もう終わりにする気持ちでいたんです。
私は電話で「今のような生活をしているあなたにはついていかれない、だから終わりにしましょ」って言ったら、あの人は飛んできちゃって。

スキャンダルとして、紹介された週刊誌の記事でしたが、女性問題はこの記事とは別の女性でした。

私が「はい」って言うまで居座ったんです。家に篭城しちゃったんですよ。なんて言ったと思いますか?「私とは絶対別れない、だけども、そっちもやめない」って言うんですよ。呆れるでしょ!?
私は、そういう貴方の気持ちにはついて行かれないんだから、ついていく自信はないって、三日間言い続けて。
でもそこにね、
今でもあの人が持ってる、73才のご老人が時々少年のような、少年らしさを彼は失ってないんですよ。結局そのときも、ほんとに駄々っ子みたいに、両方の飴玉を離さない、そこに私は正直さというか、そんな人っていないでしょう。嘘ついて「わかったよ」って言うじゃないですか。そっちもやめないし、私とも別れないと言って、私が承諾しなかったら帰らない、ここにずっと居るって、いう人だったんですね。
私はね、「自信がないけど、私なりに貴方を理解してついていくわ」ってその時は言いました。

しかし、その直後、加山さんが経営に参加していた、茅ヶ崎のホテルが倒産。負債総額はなんと23億でした。
多額の借金を抱え、完全に行き詰ってしまった加山さんは日本を離れ、アメリカに渡ったんです。

はっきり言って、逃げ出したんです。ずるいから、逃げた。正直言って、危ないというのは、前からずっとあったので、倒産したらどうするかっていうのを考えていて、当分居なくなっちゃったほうがいいだろう、世の中が騒然とするだろうし、大変なことになるだろうという気持ちから、逃げたんですね。正直言って逃げた・・・。

主人はそのあと、倒産したので、アメリカに逃亡したというか、行ってしまったんです。主人から電話がありまして、「こっちに来れないか」って言われたんですけど、「私はヨーロッパに行く」って、「なんでヨーロッパに行くんだ」って言われたときに、「ちょっと一人で、自分の人生を考えたいから」って、「だったらどうして僕のところへ来てくれないの」って言うんですけど、「貴方の側に行ってしまうと、自分の気持ちが崩れるから、私は一人で行く」って言うと「じゃあ僕がヨーロッパへ行くから」って先回りして。
その日の夜にあの人の思いを全部聞かされて、
そのときに、「一緒に居てほしい」って言われて。
(その時のお気持ちは?)
複雑でしたね・・・。ごめんなさい、涙が出てきちゃって。
(まだ、揺れてたんですね)
いや、ついて行きたかったんですよ。
ごめんなさい、ちょっと失礼して・・・。
(涙を拭うめぐみさん)
今思うと、私の年齢で、凄い決断したなと思いました。

それで、そこで決心をするんだけれども、決心するときに、「俺は金は無い、マイナス何十億だけど、それでいいか」と。「いい」という返事をしてくれたんで、ありがたいなと思ったね、やっぱね。

1970年9月4日、辛い現実から逃れた異国の街で、二人はささやかな結婚式を挙げました。

お金がないのに、ハーレーダビットソンのチョッパーを買っちゃったんです。すんごいことをしちゃう人なんだと思って。それで砂漠に行って、それが私達の新婚旅行ですね。キャンプファイヤー炊いて、そこでギターを弾いて、「夕陽は赤く」を歌ってくれましたね。これからのこと、いろんなことを想って、涙が止まらなかったですね。

(でんでんの知ったかぶり)
スポーツニッポンに掲載された「我が道」の18回に、その時の記事がありますが、加山さんはあとで高く売れるのを見込んで購入されたそうですよ。

「夕陽は赤く」
 VTR
(2002年 NHK「ACOUSTIC SAILING
 加山雄三2002 光進丸」より)
あの人は飛んできちゃって。 私とは絶対別れない、だけども、そっちもやめない。
はっきり言って、逃げ出したんです。 今思うと、私の年齢で、凄い決断したなと思いました。
ありがたいなと思ったね、やっぱね。 すんごいことをしちゃう人なんだと思って。

二人で、手に手を取って逃げちゃおうかっていう気持ちはありましたけども、私は自分ながら、しっかりしてたな、と今思いますとね。
やっぱりそれじゃあいけない、結婚式挙げたら、日本に帰って。
ご迷惑をかけて方々に殺されはしないと、まだ若いし
健康な身体があれば、絶対立ち直れるから、二人で頑張ればいい、やって行けるからって、帰ろうって。
私の立場だったら、そういうのは簡単に言えるんだけど、一度スターを究めた人の屈辱感とかを思ったら、今思えば、彼はほんとに逃げ出したかっただろうと思いますね。そこで、私が単純に逃げちゃおうって言えば、逃げられたかもしれないけども私達は、日本人というのは捨てられないんですよね。
そういうこと思ったら、絶対に出直しが効くと。

アメリカでそのまんま、全てを放棄して生きていこうと思えば、なんとか生きれないことはないとは思ったんですよね・・・。
このまんまじゃあ、一生十字架背負ったり、あるいは空洞がここに出来ちゃった状況になって、生きていけないんじゃないかって思ったときから、自分だけじゃ出来なかったんだなあ。

羽田で、覚悟はしておりましたけど、すごい報道陣の方が待ち受けておられまして、大変な、厳しい質問がありまして、あの当時、主人は何やったって爽やかに見えちゃうんでしょうね。だから、「甘い、甘い」って、言われちゃったりね。タイトルが、スポーツ紙だったと思いますけど、「加山雄三、結婚事件」って、事件なんですよね。

結婚報道ニュース

アメリカのロサンゼルスで電撃結婚した、東宝の加山雄三さんとテレビタレント松本めぐみさん夫妻が帰国しました。
関係者のほとんどが知らない間に、外国で抜き打ちに挙式したことも手伝って、この日の羽田空港には、およそ60人の報道陣が詰めかけ大変な騒ぎです。場所を移して行われた記者会見で、新郎の加山さんは

記者会見でのお二人。

すごい可愛い人だと、そのときは17歳くらいだと思いますけど、目の中に入れてもいいくらいの可愛さを感じたんです。
彼女を結婚の対象として考えたのは、今年の5月なんですけどね。自分の心境はそんな状態じゃないから、2年くらいたっていくらか収まったら、自分としては、そのつもりだったんですけど。むこうで会ってから、いろいろ話してるうちに、「ぼくはこれからは、無一文であるし、一生懸命働らかならんのだけど、いいだろうか」って言ったら、それでもついてきてくれるという愛情を示してくれたんで、人間裸一貫になったときに、その愛がわかるということを感じて、これを逃したらぼくはダメだと思って、そのタイミングで結婚しました。
(ニュースの中での加山さんの言葉でした。)

日本へ帰ってきて、「俺はやるぞ!」って、偉そうにねえ。まあ、それは当然でしょ。そんなに甘ったるい考え方でねえ、何言ってんのかって言われた・・・、「家庭を築いて、それを土台にして、頑張って返済していくつもりでいますから」って言ったら、「甘い、甘い、馬鹿野朗」って。確かにそれは、それまで相当チヤホヤされたように思われたと思うんですけどね、別に僕はチヤホヤされたというよりも何よりも、不安感の方が強かったのと、不純な動機で選んだことのバチが当たったなと。そうやって言われて当然でしょう。有名になって、大ヒットして金も儲かってるんだから、ここぞとばかりに叩き落されれるのは当たり前のことでね。

追い討ちをかけるように、10年間続いた若大将シリーズも結婚直後の1971年、「若大将対青大将」を最後に打ち切りとなりました。加山さんは、かつての栄光からは想像もできないような生活を送ることになるんです。

新婚当時、一緒に暮らした家で、夕食のおかずの数がいっぱいなんて出来ない生活状態ですけど、若いときはなんでもないですね。
あのとき、悲惨な気持ちは無かったです。楽しかったですよ。一つの卵を分け合ってなんていってもね、楽しかったですよ。
主人が気の毒な状況にあったんですね、仕事をいただけなかったり、外に出れば、厳しい言葉、厳しい視線、何か私に出来ることないだろうか?何か私達に前向きになることが。

子供は貧乏でもね、親の愛情があれば、育つのよ〜みたいな、気持ちがあって「子供生もう」って言ってみたんですね。やっぱり、こういう状況の中で、子供を育てられるんだろうかと心配してました。でも、私がすぐ妊娠して、子供生まれてから、まあ、それはねえ、彼はすっごいなんかねえ、「俺はこいつのために、絶対がんばるぞ!」みたいな感じで。子供のエネルギーって、すごいですねえ。責任感っていうか、一時はお酒でほんとに、お酒に飲まれちゃうくらい飲んで、当たるところがなくて、死にたいっていうくらい苦しい状況がありましたけれども、でも、子供が生まれてからは、「こいつのために、俺は生きていかなければいけない」みたいな、そういう意識に変わっていきました。

結婚式でのお二人。 結婚式でのお二人。

新婚旅行中のお二人。

若いときはなんでもないですね。
ここぞとばかりに叩き落されれるのは当たり前のことでね。 こいつのために、俺は生きていかなければいけない・・・。

1972年7月、長男信宏さんが誕生、それは苦しい日々の中に差し込んできた一筋の明るい希望の光でした。さらにその光を大きく広げたのが、妻から贈られた一台のピアノです。

プレゼントですよ。中古のピアノなんだけどね、よくこんなものを買うだけの貯蓄をしてたんだなあ、この人は偉いねえって、音楽に携わる人間、作曲家としては、ピアノがないのは辛いでしょうからって言うから、いやあ、頭あがんないねえ、それから、ずっと。

このピアノと一人のディレクターの熱意から、名曲「海 その愛」が誕生します。

新田)1970年から75年までの5年ぐらいの間、加山さん、冬の時代って呼ばれてましたよね。厳しかった時代で。レコードが出なかった。私は会社の中に居て、先輩達にお願いしたんだけど、中々作ってくれないので、ある日製作本部長に直訴したんですよね。「加山さんの製作担当にしてください」と。そしたら、一言だけ、「本気か?」と聞かれましたね。「本気です」と。

加山さんの製作担当にしてください」と。

その十日後に会わせてもらうことになって、それが忘れもしない「山王飯店」の二階の小さい部屋だったんですけども、その日の内に、加山さんに「早くアルバム作りましょう」と。
加山さんの実績というか、作品のことはよく知ってるけども、この機会にアルバムアーティストになってほしなあというふうに思いました。
ビートルズの「ヘイ・ジュード」やサイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」みたいな大曲というのを作ってみたいなというのを話して、それが「海 その愛」になっていくんですけど。

(そのピアノで作られた?)

いやあ、実はそうではないんだよね、最後にきめてるのはそれなんだけど、前に曲は作ってあったんですよ、ギターでね。実は捨てた曲の中なんですよ。アルバムを作るのに曲が足りないという事になって、捨てた中から探そうと出してきて、これもしかしたら、いいかもしれないなあって。そのときにピアノがあったから、ピアノで弾いたらどうなるかなって弾いたんです。そしたら、まあ、使えるかもしれないなあっていうことで、ピアノでデモテープ作って、それを出したわけ。それに詩がついて出来上がったのが「海 その愛」だから。

こうして誕生した「海 その愛」は、加山さん自身のピアノ弾き語り曲として発表されました。

新田)感動したのは、歌を磨いていた、侍が刀を磨いてきたように、歌をずっと僕らの知らないところで、歌い継いできた、磨いてきたということ。不安あったでしょうけど、それに優る自信があって、いわゆる正宗の名刀みたいな歌になってるんですね。

「海 その愛」
 VTR
1979年 NHK「海よ、俺の夢よ」より
加山さんは永いトンネルを抜け、第一線に戻ってきました。
実は捨てた曲の中なんですよ。 いわゆる正宗の名刀みたいな歌になってるんですね。

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10年09月02日新設