加山雄三50年の軌跡 〜家族のきずな・音楽のきずな〜 (8月17日 NHKBS2) |
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加山さんの芸能生活50年の年に、NHKが特集番組を制作してくれました。「古希」の時の「永遠の若大将」とは一味違った、素晴らしい番組です。その中から、加山さんと、奥さんのめぐみさんのインタビューを中心にレポートしました。 ただ、残念なことに、いくつかの誤りがありました。その部分も指摘しました。皆さんはどう思われるでしょうか。 |
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加瀬邦彦さんのインタビュー | ||||
加山さんのインタビュー (ピアノを始めたきっかけ) |
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「夜空の星」 VTR (1976年 NHK 「加山雄三 39歳の青春」より) |
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友人峰岸さんのインタビュー | ||||
あの人は飛んできちゃって。 | 私とは絶対別れない、だけども、そっちもやめない。 | ||||
はっきり言って、逃げ出したんです。 | 今思うと、私の年齢で、凄い決断したなと思いました。 | ||||
ありがたいなと思ったね、やっぱね。 | すんごいことをしちゃう人なんだと思って。 | ||||
二人で、手に手を取って逃げちゃおうかっていう気持ちはありましたけども、私は自分ながら、しっかりしてたな、と今思いますとね。 アメリカでそのまんま、全てを放棄して生きていこうと思えば、なんとか生きれないことはないとは思ったんですよね・・・。 羽田で、覚悟はしておりましたけど、すごい報道陣の方が待ち受けておられまして、大変な、厳しい質問がありまして、あの当時、主人は何やったって爽やかに見えちゃうんでしょうね。だから、「甘い、甘い」って、言われちゃったりね。タイトルが、スポーツ紙だったと思いますけど、「加山雄三、結婚事件」って、事件なんですよね。 |
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結婚報道ニュース |
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アメリカのロサンゼルスで電撃結婚した、東宝の加山雄三さんとテレビタレント松本めぐみさん夫妻が帰国しました。 |
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記者会見でのお二人。 |
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すごい可愛い人だと、そのときは17歳くらいだと思いますけど、目の中に入れてもいいくらいの可愛さを感じたんです。 日本へ帰ってきて、「俺はやるぞ!」って、偉そうにねえ。まあ、それは当然でしょ。そんなに甘ったるい考え方でねえ、何言ってんのかって言われた・・・、「家庭を築いて、それを土台にして、頑張って返済していくつもりでいますから」って言ったら、「甘い、甘い、馬鹿野朗」って。確かにそれは、それまで相当チヤホヤされたように思われたと思うんですけどね、別に僕はチヤホヤされたというよりも何よりも、不安感の方が強かったのと、不純な動機で選んだことのバチが当たったなと。そうやって言われて当然でしょう。有名になって、大ヒットして金も儲かってるんだから、ここぞとばかりに叩き落されれるのは当たり前のことでね。 追い討ちをかけるように、10年間続いた若大将シリーズも結婚直後の1971年、「若大将対青大将」を最後に打ち切りとなりました。加山さんは、かつての栄光からは想像もできないような生活を送ることになるんです。 新婚当時、一緒に暮らした家で、夕食のおかずの数がいっぱいなんて出来ない生活状態ですけど、若いときはなんでもないですね。 子供は貧乏でもね、親の愛情があれば、育つのよ〜みたいな、気持ちがあって「子供生もう」って言ってみたんですね。やっぱり、こういう状況の中で、子供を育てられるんだろうかと心配してました。でも、私がすぐ妊娠して、子供生まれてから、まあ、それはねえ、彼はすっごいなんかねえ、「俺はこいつのために、絶対がんばるぞ!」みたいな感じで。子供のエネルギーって、すごいですねえ。責任感っていうか、一時はお酒でほんとに、お酒に飲まれちゃうくらい飲んで、当たるところがなくて、死にたいっていうくらい苦しい状況がありましたけれども、でも、子供が生まれてからは、「こいつのために、俺は生きていかなければいけない」みたいな、そういう意識に変わっていきました。 |
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結婚式でのお二人。 | 結婚式でのお二人。 | ||||||||
新婚旅行中のお二人。 | 若いときはなんでもないですね。 |
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ここぞとばかりに叩き落されれるのは当たり前のことでね。 | こいつのために、俺は生きていかなければいけない・・・。 | ||||||||
1972年7月、長男信宏さんが誕生、それは苦しい日々の中に差し込んできた一筋の明るい希望の光でした。さらにその光を大きく広げたのが、妻から贈られた一台のピアノです。 プレゼントですよ。中古のピアノなんだけどね、よくこんなものを買うだけの貯蓄をしてたんだなあ、この人は偉いねえって、音楽に携わる人間、作曲家としては、ピアノがないのは辛いでしょうからって言うから、いやあ、頭あがんないねえ、それから、ずっと。 このピアノと一人のディレクターの熱意から、名曲「海 その愛」が誕生します。 |
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新田)1970年から75年までの5年ぐらいの間、加山さん、冬の時代って呼ばれてましたよね。厳しかった時代で。レコードが出なかった。私は会社の中に居て、先輩達にお願いしたんだけど、中々作ってくれないので、ある日製作本部長に直訴したんですよね。「加山さんの製作担当にしてください」と。そしたら、一言だけ、「本気か?」と聞かれましたね。「本気です」と。 | |||||||
加山さんの製作担当にしてください」と。 |
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その十日後に会わせてもらうことになって、それが忘れもしない「山王飯店」の二階の小さい部屋だったんですけども、その日の内に、加山さんに「早くアルバム作りましょう」と。 (そのピアノで作られた?) いやあ、実はそうではないんだよね、最後にきめてるのはそれなんだけど、前に曲は作ってあったんですよ、ギターでね。実は捨てた曲の中なんですよ。アルバムを作るのに曲が足りないという事になって、捨てた中から探そうと出してきて、これもしかしたら、いいかもしれないなあって。そのときにピアノがあったから、ピアノで弾いたらどうなるかなって弾いたんです。そしたら、まあ、使えるかもしれないなあっていうことで、ピアノでデモテープ作って、それを出したわけ。それに詩がついて出来上がったのが「海 その愛」だから。 こうして誕生した「海 その愛」は、加山さん自身のピアノ弾き語り曲として発表されました。 新田)感動したのは、歌を磨いていた、侍が刀を磨いてきたように、歌をずっと僕らの知らないところで、歌い継いできた、磨いてきたということ。不安あったでしょうけど、それに優る自信があって、いわゆる正宗の名刀みたいな歌になってるんですね。 |
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「海 その愛」 VTR 1979年 NHK「海よ、俺の夢よ」より |
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加山さんは永いトンネルを抜け、第一線に戻ってきました。 | |||||||
実は捨てた曲の中なんですよ。 | いわゆる正宗の名刀みたいな歌になってるんですね。 | ||||
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10年09月02日新設
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